前回のお話
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保守の立場について 〜新しいものに反対するから保守なのだ
保守の原点 〜市民社会と封建社会
保守という立場はエドマンド・バークという人がフランス革命に反対したことによって現れました。バークがなにを保守したのかといいますと、市民革命以前の社会です。それは封建社会、つまり貴族によって支配されていた社会ですね。
しかしです。それはバークにとっては守るものであったかもしれませんが、後々の歴史に照らしてみると貴族社会に戻れということはかなり無茶な要求であるかと思えます。たとえば日本であれば保守といったからといって江戸時代に戻れ、とか、徳川家再興、なんていう人はいません。なぜならば現代の時点からそういうことを言えば、今享受している自由等々の価値観を捨てることになってしまいますからね。もし今政治の世界で重要なポストを占めていたとしても、社会制度まで江戸時代に戻してしまえば徳川家の者しか政治的決定権は持てないでしょうから、いくら保守といってもそれは江戸時代を指さないのです。
保守の守るものとは 〜その難しさ
となると保守の守るべきものとはどうなるのでしょうか。実はこれこそが保守という立場の難しいところです。
というのも、バークがそうであったように保守とは現在の時点から見て過去の社会秩序を理想化して評価するものだからです。そして現在の社会状況に対してかつてあった理想像を復活させることが正しいと考えるからです。
対立する保守すべき過去 〜理想の過去は一致しない
しかし、ではAさんとBさんとではそれが違えばどうなるでしょうか。たとえば今の日本で考えてみましょう。Aさんは高度経済成長期を理想とします。Bさんは戦後まもなくを理想とします。Aさんは最も日本が豊かだったからで、Bさんは最も日本が一丸となっていたからだ、と考えるとしましょう。そしてそれに比べて今の日本の姿は情けない。こう考えているとします。
2人の意見で一致するのは今の日本の状況に対する不満です。しかしその現状認識に対して評価するものは違います。Aさんは結果として日本経済が世界トップクラスになった時期を理想化しますが、Bさんはそうした日本の経済復興を成し遂げる原動力をもっていた戦後まもなくを理想化しています。求める理想像は結果と原動力で結構違います。ですがこれが保守として一括りにされます。
明確な基準なき保守主義 〜新しいものへの反対とその正当性
というのも保守とは明確な基準がないからです。マンハイムという人が述べていますが、保守主義とはこうした新しく現れてきたものに対する反対によって自らの立場を位置づけるものだからです。これがマルクス主義的な左翼であれば違います。なぜならマルクス抜きにしては成り立たないので、必ずマルクスに依拠して説明しなければならないからです。代わりにマルクス主義的左翼では誰がそのマルクス主義の見解で主導権を握るかで大揉めします。おそらく共産党などで内ゲバが起こるのはそのためで、必ずマルクスに依拠しなければならないとすればその正当解釈を握った者が全権力を握るのは日の目を見るより明らかだからですね。邪魔者は異端として追い出しちゃえばいいんです。
それと比べると保守は簡単です。自分でよかったと思う時代を思い浮かべて、それと比べて現代が間違ってるといえばいいからです。しかしここで大きな問題があります。保守する人がある特定の時代をいいものだと仮定しても、それがなぜいいものなのか、また現在と比べるだけでなくそれよりも前の時代と比べてもなぜその時代がいいものなのか、またまた長い歴史の中でなぜ特定の時代だけを理想化できるのか、などなど、保守すべき時代の正当性というものが明確にならないばかりか、人によっていくらでも変わってしまいますし、基準すらないということになってしまうからです。
そのためバークの時代と違い現代では保守を名乗る人は自分の保守する立場がなんであるのか、自らで明確にしなければならないのでした。
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気になったら読んで欲しい本
バーク『フランス革命についての省察』
バークの本。今回は中公クラシックスにしてみました。
とりあえず保守というものは立場が明確ではなく曖昧なものです。そのため一度そうした考えの生まれた原点を見直してみるのもいいかもしれませんね。
マンハイム『保守主義的思考』
これはマンハイムという社会学者が自らの切り拓いた知識社会学という分野で行った保守やバークの分析かと思います。
マンハイムによりますと普通庶民は昔から続いていたものをそのまま続けるのであって、それを伝統主義とします。一方保守主義はその1地点を切り取って絶対的価値に置きます。しかしそれは人によって違うので、実はそれぞれの保守主義者たちの間では齟齬があるといいます。それなのになぜひとつの立場になりえるのかといえば、新しく出てきた社会勢力(市民階級やマルクス主義)に反対するということによってひとつになるのだ、といいます。つまり新しいものに反対することによって立場の違う者が一体になってるわけですね。
多分こんな感じだったと思うのですが、他の人たちの意見も読んだりしてごっちゃになっている可能性も大きいです。興味あればこの本読んでください。結構薄い本です。でもバーク知らないとちょっとよくわかんないかも。
そういえば昔若かりし日の宮台真司は、朝まで生テレビでマンハイムの考え方をまくしたて保守思想家の西部邁を1分で退席させたという逸話があります。
呉智英『封建主義者かく語りき』
で、保守っていうのが恣意的なものであることをついて、わざと封建社会を評価するようなことをした評論家の呉智英の最初の本です。内容は忘れてしまいましたが、目的としては当時の保守に対する批判、もしくは揶揄やからかいだったと思います。呉智英は当時権威ある学者や知識人に批判を繰り返していましたが、もしかしたら今のネットでツイッターを使って行われていることの先駆けだったのかもしれませんね。そういうといくらなんでも呉智英を悪くいいすぎてしまいますが、でもやっぱり学者や知識人を批判するなら呉智英のように対抗できるだけの知識や教養を身につける必要はあるかもしれませんね。
『サクラ大戦』(セガ)
ふと思い出したのですが、昔『サクラ大戦』という作品がゲームでありまして、その一作目の第一部のボスが天海大僧正でした。そして天海の目的は徳川幕府の再興で、今思い返してみますと保守のパロディみたいなものでしたね。新作も出るらしい(当時)ですから、懐かしがって載せてみることにします。
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お話その138(No.0138)