前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/228/2020.08.25
入れ物としての人間とそそがれる中身として共通するもの
共通する中身と入れ物の関係
グラスとコーラ、もしくは入れ物とそそがれる中身の関係において個人と集団に対する捉え方の考え方を見てみました。個人主義というのはグラスを中心にして捉える見方であって、集団主義はそそがれる中身を焦点にした見方なわけですね。
物理的に異なる存在と共通して共有している存在
この場合グラスはたとえ同じメーカーのものであっても物理的に別の存在だと考えます。それに対してそそがれる中身であるコーラは同じものだと捉えることも可能かと思います。というのもコーラは液体ですので同じペットボトルからそれぞれのグラスにそそいだ時、厳密にそれぞれの違いがあるのかわかりにくい気がするからですね。
もちろんグラスが同じメーカー、同じ形をしたものであっても物理的に別々の物であるのと同じように、グラスにそそがれたコーラも物理的に別の存在です。しかしそそがれる前のコーラは同じ一本のペットボトルに入っていたので同じ物のように見えます。これは私たち人間が視覚中心に物事を捉えることに慣れきっているためこの違いが直感的に一瞬でわからないわけです。いちいちその違いを説明してもらわなければならないひと手間がかかるわけですね。
同一存在からわけられた存在は共通する存在か
そのため液体の場合そそがれて分けられた後の姿はもとのペットボトルにあったものと同一のものであるように受け取られることが自然な見方にもなります。そしてこれを人間の場合に当てはめてみますと、各個々人の違いは違いとして、その共通する○○は同じである、という風に捉えることも自然なことにつながってくるかもしれせん(ちょっと比喩的・レトリックすぎる説明かな)。
共通するものに焦点を当てた人間観
となると原理的に断絶された存在である人間/個人というものも、その共通するところに焦点を合わせてみれば、それぞれの違いを覆うような形でみんな一緒であるようにみなすこともできます。実際グラスが5個あったとしてそこにみな同じ一本のペットボトルからそそがれたコーラがあればどれも同じに受け取られるかもしれません。たとえば5人兄妹で5個のグラスにそそがれたコーラがいいかケンカしていたとしたら、お母さんはどれも一緒だからケンカやめなさい、なんて言われたりするかもしれませんしね。
そしてグラス=容器=個人というものよりもコーラ=中身=共通するもの、というものに焦点を当てて上位にあげれば、個人主義的な人間観よりも集団主義的な人間観へと向かっていくようにも思えるのでした。
【佐藤雅彦『プチ哲学』】
【ドロワ『暮らしの哲学』】
(どちらも楽しいちょっと試してみたくなるちいさな哲学体験をその効果つきで書いています。1ページ1題でぺらぺらめくって面白い、そんな本です。やってみると愉快かも)
次回のお話
人間を形成している同じものから中身のある人間へと至る無数の混ざりあうもの ~交換できることのない個人個人としての人間と混ざりあうものの結果として出来上がる個人 - 日々是〆〆吟味
お話その228(No.0228)