前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/18/200021
人間の成長と近代/未開社会の成長の境界線と自我の探求と自分探し ~自分探しでカリスマ(暗示者)を求めてるのが群衆状態?
脱線ついでに自我の喪失といった問題と兼ね合わせて、ひとつお話をつけたしてみたいと思います。
人間の成長と自我の確立
自我の喪失、もしくは自我の未成熟といった問題は人間避けては通れない問題です。なにせみな子供から成長して大人になっていくのであり、また子供の頃からすべて自分で考えていくわけにはいきませんからね。物の名前も使い方も知らない中、それらすべてを判断していくなんてことは不可能です。人間は生まれて成長していく中で誰かに物事を教えてもらわなければならず、同時にそうした人々に強く影響されて規定されていきます(親や教師が多分そうなる)。そこから離れて自らを自分自身で作り上げていくとが近代的人間観の前提としてあると思われるのですが、これが自我の確立となると大変困難なことが予想されます。そりゃ思春期は荒れもするってもんですね。
【ウィトゲンシュタイン全集『哲学探求』】
(人間の持つ規則というものが、様々な使い方のある中で、正しいとされるものを教えられることによって与えられる、といったようなことを書いてある、と思われる、とっても難しい哲学書。よくわからん)
未開社会の成長と通過儀礼
これが未開社会ではちょっと違うようです。というのも大人になるためにはひとつ儀式があって、それを乗り越えることによって所属する共同体で大人と認めてもらえるからだそうです。これを通過儀礼っていうんですけど、たとえば今や絶叫系の代名詞でもあるバンジージャンプももとはある未開社会の通過儀礼だったそうです(昔TVで見た覚えがある)。
【ヘネップ『通過儀礼』】
近代社会と通過儀礼の喪失 〜成長の境界線の行方
これが近代社会になることによって通過儀礼みたいなものは失われていったわけですね。そのためみんなどこで大人になったのかわからなくなってしまうわけです。その結果大人とみなされる年齢になっても思春期と同じような問題に悩まされてしまう現代人が現れてきました。しかしそれは仕方のないことかもしれません。近代/現代社会は未開社会と比べてあまりにも複雑すぎます。簡単に境界線など引けませんし、ひとつの分野でスペシャリストになれたとしても他分野では子供同然の認識しか持たないのが近代社会というものです。
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/17/190004
【江藤淳『成熟と喪失』】
【大塚英志『子供流離譚』】
(戦後の日本人がいかに成熟し難くなったか、を江藤淳は問題にし、その問題意識を引き受けた大塚英志が自らもおたくとしてなぜ大人になりきれないのか、と問うている一連の評論の最初期の一冊。ただ私は大塚英志のこの本は読んでいません)
自分探しと自我の探求
そこで自分探しなんて言葉もありましたが、これはまさに自我の確立を求めるような言葉に思えてきます。しかし自分探しと言う時、普通思春期の年齢を指しません。むしろちゃんとした年齢(と世の中に見られている)であり、仕事もちゃんとしていて、それでも自分(=自我/自己?)を求めて違う世界に眼差しを向けるような態度を指すように思います。そういえばサッカー選手の中田英寿も引退した時に自分探しをしたいなんて言ってた気がしますね。
「新たな自分探しの旅に出たい」、中田英寿選手が現役引退を表明。 | Narinari.com
また映画でもそのようなタイトルで描かれたものがあったかと思います。しかし自分探しを求めるのはどちらかといえば女性の方が多い気もします(フィクションがとりあげやすいだけなのかもしれませんけど)。
【食べて、祈って、恋をして】
自我の探求 〜哲学的大テーマとパッケージ的商品化
大体自分探しと言うと馬鹿にしたニュアンスがちょっとつくように私は感じられるのですが、ここらへんは問題が少しややこしい気もします。というのも自分探しを真の自我を求めることだとしたら文句なしに哲学的な大テーマになります。大体近代哲学者で偉い人は全員といっていいほど自我について考えているはずですし、日本でも永井均がずっと自我について考えているはずです。こうした人たちに対してなにやってんのかわかんないから揶揄することはあっても、自分探しの旅に出る人たちと同じような眼差しはあまり向けられていないような思います。
【デカルト『方法序説』】
(近代哲学において自我を最初に定めた画期的な本。短いんでとりあえず読める。はず)
【永井均『〈私〉のメタフィジックス』】
(永井均の本は他のものを数冊読んだだけです。この本は読んでいません)
ではなぜ自分探しが馬鹿にされがちなのかといえば、それが実のところ消費社会におけるひとつのキャンペーンにすぎないからだ、ということなのかもしれません。つまり自我の探求は正真正銘の難題であるにもかかわらず、自分探しという形でパッケージ化して商品にすることによってお手軽に解決できるものとして消費者に与えられている、といったところでしょうか。こう考えてみますと消費経済における商品化はとうとうこの私まで商品にしてしまった、といえるのかもしれませんね(ある意味すごい)。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/10/170055
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/30/120038
しかしいかに消費社会に組み込まれた形であったとしても自分探しと言えるような動機は切実なものとしてあるはずです。少なくともここで求められているような明確な自分=自我や自己というものが自分自身で感じられないから自分探しという言葉に引っかかるわけです。かといって本気でその問題ととりくむには相当の古典とかじりついて勝負しなければなりませんし、そもそもそんなもの普通に生活していれば知らない方が当たり前かもしれません。それでも感じちゃうのが近代/現代っていうものなのかもしれませんね。
自我の代替者としてのカリスマ
ま、それはともかく、こうした自分探しというものが近代/現代特有の現象だとしたら、その求める先となるものとして、はっきりしない自分に形を与えてくれるものが必要とされる、ということもあるかもしれません。女性であれば強い男性像かもしれませんね(男性なら金か権力/社会的地位でしょうか)。それと同じように自我の曖昧になった群衆では、その自我の向かい先として群衆を操作する暗示者をカリスマとして求めてしまうのかもしれません。
【ル・ボン『群衆心理』】
と、なんとか最後に群衆の話に結びつけることが出来ました。よかったよかった。けどこうした群衆の求める暗示者/カリスマが自分探しをしている女性の求めるような本当に強い男性像通りの人物であればいいのですが、そうした男性像を勘違いしたオラオラ系ということもありますので、群衆もまた求めるカリスマが本物であるかどうかは大変難しくも危険な問題かもしれませんね。
お話その201(No.0201)