前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/15/200056
自我の形成と群衆における自我喪失 ~我を失う/作るっていうのは似てること?
フロイトの群衆と自我
フロイトの捉えた群衆は、ただお互いに我を失い一塊りのまま暗示にかけられてしまう存在というだけでなく、自我の概念を持ち込んで群衆を操作していく人間との間で起こる相互関係のようにも思えました。ル・ボンは群衆をその塊単体で捉えたのに対し、フロイトはその外にいる暗示者となる人物も含めて考えたのかもしれませんね。
【フロイト『自我論集』】
(フロイトが自我について書いたものをまとめたものですが、難しくて私にはよくわかりません)
またフロイトがポイントにした点に脆弱な自我というものもあったかと思います。群衆がそもそも個人を失う場=自我喪失であるように、元々自我が十分に養われていない人たちこそ暗示者に引っ掛けられやすいというものでしょうか(でもフロイトはそう言ってたかなぁ。ちょっとあやしい)。
それが政治的に行われれば今の安倍支持者や大阪の維新支持者のような形になると思いますし、ふた昔前であればオウム真理教、いつ昔(?)ほど前であれば学生運動になるのかもしれませんね。これらは掲げているお題目は違うけど、群がってくる人たちの心性はあまり大差はないのかもしれません(どうだろう?)。
【ル・ボン『群衆心理』】
自我の形成と人間の精神
ま、それはともかく、自我が強固なものではないというのは言うのは簡単ですがやりきってしまうことは多分大変難しいものです。ヘーゲルの『精神現象学』を絶対知へと至る精神の過程と考えてみて、その頂点が自我の確立なんて捉えてみたらほとんど無理な気すらしてきます。
【ヘーゲル『精神現象学』】
(人間の認識を低いものから最高のものまでに至る過程を哲学しているのですが、読み方によっては自我の形成過程に読めないこともないかもしれません。どうだろ)
それでもこうした自我の確立というものは大人の方が成し遂げられているように思われてもいます。実際どれほど年を経れば自我が確立されるものなのかは不明として、それでも子供よりかは確立されているような気もします。
思春期と自我の確立
そう捉えられる理由のひとつとして思春期の問題がありますね。反抗期だったり荒れたりするものですが、いわばこの時期こそが自我を確立するための最も重要な時期だと考えられます。
それは人間の精神が基本的に内部だけで勝手に育っていく(生成していく?)ものではなく、外部から取り入れた情報によって成長していくからです(詳しい説明は大変なので割愛)。そして子供時期に与えられる外部情報といえば親や家族から与えられるものが最も多く、そうして与えられたものによって自己形成されていきます。しかしそれだけでは親の価値観のコピーとなってしまいかねないので、自らをオリジナリティある存在として認めるよう子供は外部情報の主である親や家庭と摩擦を起こして自我の確立へと壮大な戦いへと挑むようになるわけです。
新しい自我モデルの対象者の必要性
さて、話が前置きだけで終わってしまいそうですが、この時子供は自らの自我(自己?)モデルとして親とは異なるものを持ち出さなければなりません。そうしなければ親の影響下にある自我形成から逃れられないからです。かといって10代前半頃から古典の読書を行い自我形成するなんて真似今時不可能です(すごい人は出来ているのかな。そういや『罪と罰』の訳者である江川卓は中学生の時にドストエフスキー読んだって解説で書いてたけど)。そのため精神の成長のため一時的な自我モデルの対象を持たなければなりません。
【ドストエフスキー『罪と罰』】
(ちなみにドストエフスキーの『罪と罰』って、今風に言えば中二病が実際に殺人起こしちゃう物語として読めないこともありません。異様な文体さえなんとかなれば、今でも十分社会性があります。私は昔あった酒鬼薔薇聖斗の事件を思い出してしまいます。また主人公のラスコーリニコフ君はナポレオンを自我モデルの対象としていました)
自我形成途中の精神と群衆の類似?
しかしこの関係がある意味では群衆と暗示者の関係と似ていないこともないかと思います。子供は思春期に至って自らの自我を確立するために親とは異なる自我モデルを欲して何者かを求めますが、群衆は集まることによって自我を失わされることによって暗示者へと自我を投射してしまいます。そして子供が信奉者としてついていくように、群衆も暗示者についていくとも思われないこともないのでした。
…本題までいきませんでした。
次回のお話
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お話その200(No.0200)