前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/24/063002
社会の認識と各々の層 〜未開社会と文明社会における社会内部に存在する、社会の問題や成り立ち、秩序の維持を正確に認識することのない層と権力関係
大衆人と未開人
大衆は文明の中の未開人みたいなものだ、とオルテガは言い、レヴィ=ブリュールが分析した未開人の考え方がなんとなく私には大衆と似ているように感じられたのですが、こうした考え方にはちょっと留保が必要とも思われます。私の感想だけということもありますが、未開人というものも単一的なものではないぞ、と昔読んだものもあるからです(記憶違いだったらごめんね)。
【オルテガ『大衆の反逆』】
【レヴィ=ブリュール『未開社会の思惟』】
未開人の思考とブリコラージュ
レヴィ=ストロース(似た名前だけどレヴィ=ブリュールとは別人)は文明人(=ヨーロッパ人)は未開人のことを人間未満の獣同然といった形で馬鹿にして捉えているが、そんなことはない、と主張しました。そして未開人独特の考え方を文明人=ヨーロッパ人と対比する形で浮かび上がらせるのですが、それがブリコラージュと呼ばれるものです。文明人=ヨーロッパ人の考え方を科学的思考ととりあえず設定した時、それは計画的に順番に考えて結果へと至るものです。帰納とか演繹と呼ばれるいわば論理的な手続きなのですが、これに対し未開人のブリコラージュはとりあえず目の前にあるものを使って当面まかなえるものを手作業で作り上げてしまうことを指します。そのため文明的思考が科学だとすれば未開的思考は日曜大工の手作業だ、というわけですね。
【レヴィ=ストロース『野生の思考』】
これは今のネットでの調べ物などを考えてみればそのまま当てはまる気もしますね。とりあえずネットで調べたものを使って目的のものを解決できればいいわけです。それに対しプログラム言語を1から学んでホームページを作ったりすること(よく知らないけど)は段階を踏んで順番に学ばなければならないかと思います。こうした対比が日曜大工的か科学的かという例になるかもしれませんね。東京都庁を設計するためには丹下健三みたいに建築を1から学んで一流にならなければなりませんが、家の屋根を雨漏りしないようにするだけなら建築なんて知らなくてもなんとか出来ないこともないわけです(ビニールシート敷くとか)。
未開社会における大人と女子供
そしてレヴィ=ストロースはたしか続けて、未開社会の中でも大人と子供の差は同然ある、と言います(多分そう書いてた覚えがある)。文明人は未開人を理性ない獣として捉えているから迷信も事実も区別つかないと思っているがそんなことはない。未開社会の中ですら迷信はあり、部族の大人たちはそれを馬鹿にする。部族の中で女子供がそうした話題に盛り上がっていると文明人がするのと同じように理を弁えない者がくだらん噂を立てている、と考える、と言います。
まぁ女子供という捉え方がちょっと前時代的ですが、未開社会でもそんな前時代的な価値観があることに驚きもします。そして女子供というカテゴリーを社会教育の行き届いていない層として捉えれば、文明社会における大衆とどう違うのか、ちょっとわからなくなってきます。
ついでに補足しておくと、女性や子供が教育から取りこぼされていたのは歴史的にあり得た事実かと思います。以前資本主義初期の労働者で使われるのは大人の男より女性と子供であった、と書いたかと思いますが、その方が賃金安く抑えられて力も弱いから支配的に酷使しやすかったからのようです。こうした状況に対抗するため歴史的に女性の解放が叫ばれ、男女共の選挙権が必要とされ、子供には教育を与えるように保障されるようになったのかもしれませんね。それがないと社会において一般的な存在として認められず、相対的に力の強い層によって好き勝手されてしまう、ということなのかもしれません。
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社会の規則と認識
しかし女性や子供という性差、年齢による区別を無視するならば、社会的規則を学ばない人は除外されてしまうことはありえることです。単純な例だと会社で偉い人と末端の人に対する態度を変えられない人はある程度以上の規模の企業には居続けられないかと思います(身内的な小さな会社なら許されるかも)。これは会社等で教えられても聞かない人、と個人的な問題に還元することは出来るかもしれませんが、それを社会全体に広げてみると、社会の成り立ちや運動を知らないと、変更可能な場所を抑えている人たちの自由になってしまう可能性だってあります。この間も労働組合の資金を管理をしていた人が10億円着服してニュースになっていましたね(それにしてもすごい額だな)。誰も監視していないとやりたい放題です。しかし監視しようにも、認識出来なければそこで行われている不正も理解出来ないことになってしまいます。そうした時知らないままで理解しようとすると未開社会で大人が眉をしかめたように、迷信とうわさ話でしか判断されない危険性があります。それは未開社会の場合、社会に対する教育から零れ落ちているからですね。
未開社会ではそうした社会認識を大人の男性だけが独占しているのかもしれませんが、文明社会では批判されて乗り越えられてきました。そのため基本的には子供にも教育は行き届かせてますし(少なくとも未開社会よりは行き届いてるんじゃないかな)、女性も無知で当たり前なんてこと今時口が裂けても言えません。馬鹿な男が多いとも思いたくなるかもしれませんが、多分馬鹿なのは性差ではなく個人問題でしょう。つまり文明社会では教育の機会も与えられ自分でも学ぶことがゆるされているのに、学んでない人がいるわけですね。
こうした人をオルテガは大衆人と呼ぶのかもしれませんが、そんな大衆が増えれば増えるほど世の中の問題を正確に捉えることが少なくなっていく気がします。ましてやオルテガによればそうした大衆が支配的立場にいて、発言権を持ち、決定しているのが現代だ、というわけですからね。そして理解できないまま未開社会で社会教育から零れ落ちた層が話すように、うわさ話で迷信を広めます。未開社会であればそれは女子供ですが、文明社会では誰もがそうなります。そして社会認識のための理解は人文・社会科学によって蓄積されています。そうした分野を切り捨てるということは、社会の成員である私たちをより大衆へと近づけるやり方なわけです。
統治者と批判的知識人の脅威
実際中国では文化大革命が起こりましたし、他の独裁国家でも知識人は排除されます。ソ連ではマルクス主義の歴史に残る理論家がたくさん粛清されたそうです。それは指導者にとって邪魔になるからです。社会を、その内部に存在している問題とともに正確に認識されては、指導者の問題も明らかになって統治しにくくなりますからね。そして仕舞いには指導者の座を引き摺り下ろされてしまう危険性も起こってきます。それが怖いから敵となる可能性のある者を消してしまうわけです。大本営発表で調子のいいこと言って満足してくれればいいのですが、見抜くような人がたくさんいては支配者の方は困ってしまいます。大塚英志などは、人文学部の廃止や教育改革によって現在行われているのは見えない文化大革命だ、と述べたりもしています。つまり大衆ばかりにして社会の問題を見えないようにして、かつそこで話されることは迷信/うわさ話の水準ばかりで裏づけがなく、統治者の発表したことを都合のいいように鵜呑みして欲しい、というところでしょうか。せめて日本だけならいいですけどね。宗主国である親分のアメリカでもそうなんで、どうなるんでしょうか(とはいえアメリカの知識人は世界中からやってきて、世界トップクラスの層でもありますから、この点でも日本とは違いがあるのかもしれません。日本を代表する思想家とみなされる柄谷行人もアメリカで教えて、著書を英語で出してますからね)。
【大塚英志『「おたく」の精神史』】
(なんでもこの星海社新書版で新しく書き下ろされた序章が〝見えない文化大革命〟と題されているようです。私は昔の版で読んだのでこの序章は読んでいません。しかし他の著作で似たことは書いてありました)
【柄谷行人『定本 柄谷行人集』】
(柄谷行人の著作集みたいなもので、5巻あります。日本で書いたものを英語で出して、それをまた見直して日本で収録して出しているようです。最近岩波現代文庫に入ったものもみなそうした形のようです)
なんか話がまた脱線してきましたが、要は大衆と未開人の思考が似ているように思えるけど、その未開人の方にも思考があるだけでなく、その内部で差が自覚されている、ということを書きたかった…ような気がします。なんだか久しぶりに書くものですからカンが鈍ってるのかもしれません。よりぐちゃぐちゃにならないうちに、今回はこれくらいにしておきたいと思います。
次回のお話
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お話その169(No.0169)