前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/21/170001
文明社会における大衆と未開人 〜オルテガ曰く、大衆とは文明社会の中の未開人
文明社会の中の大衆人
大衆が近代社会に生まれるだけでなく、その時代の頂点といった自覚を持った今までにない時代でもあったことは前回書いてみました。それは当然文明による歴史的な勝利の時代と捉えることが出来るでしょうか。なんだかヘーゲルが言ってた歴史哲学みたいですが、ある意味これがヨーロッパの持つ自意識なのかもしれませんね。
【ヘーゲル『世界史の哲学講義』】
(世界史は思想の闘争であり、様々な段階を経てヨーロッパ哲学=ヘーゲル哲学へと至る、という考え方の歴史観。ヘーゲルによって時代は頂点に達したので、その考え方が行き渡るとオルテガが言うようにみな今が頂点の時代と捉えるのかもしれません。なんか新訳もあるようで、今回はそちらを載せてみます)
大衆は文明社会の原始人?
となると大衆の生まれた時代は間違いなく高度に発展した文明社会ということになるのですが、どうもオルテガは大衆という存在は文明人であるとは思っていないようでもあります。というのも、今日の主調をなすタイプの人間は、文明世界のまっただ中に現れた原始人、自然人であることを意味しているのである。世界は文明開花しているが、しかしその住民は未開なのである(←斜線原文)なんて書いているからです。
【オルテガ『大衆の反逆』】
原始人や自然人だから科学には興味も持たないし、目の前にある世界は自然そのものなのだから精緻な技巧によって構築・維持されていることにも気づかない、と、けちょんけちょんですが、ただちょっと面白いな、と思ったのは、オルテガとは別にちゃんと未開社会の人たちの考え方というものを書いた人がいて、ふとその人の本を読んでいたらオルテガのことを思い出したのでした。
未開人の特徴と大衆の特徴
それがレヴィ=ブリュールという人なのですが、この人は『未開社会の思惟』という本で未開人の考え方というものを分析しました。読んだのだいぶ前なのでほとんど忘れてしまいましたが、なんだか未開人の特徴を説明しているはずなのに大衆の特徴と似ているように思いながら読んだ覚えがあります。たしか前論理的とかそういう言い方をしていたんじゃないかと思いますが、未開人だろうが文明人だろうが案外似てるところもあるのかな、なんて思った気がします。
【レヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』】
しかし今こうしてオルテガをちょこちょこ見直しながら書いていますと、未開人と文明人が似ているのではなく未開人と大衆が似ているのであり、オルテガも最初から大衆が文明社会の未開人だ、と指摘していました。それは私が読んだ時の感想でしかないのですが、レヴィ=ブリュールの本はオルテガより少し前に書かれています。もしかしたらオルテガは読んでいたのかもしれませんし、また知らなくとも同時代の様子から似たことを考えたのかもしれません。それはわかりませんが、もし大衆が未開人と似ているとしたら、文明の担い手になるにはやはり文明化しなければならないのかもしれませんが、その方法は自らに多くを課す選ばれた少数者(貴族/エリート)になるしかないのでしょうか。しかしそれは少数者と言われるように万人に可能であったり期待すること自体難しい、もしくは横暴な願いとは考えられないものでしょうか。誰でも可能なら少数者にはならない気もしますよね。
とはいえ、重要な座にいる人々がこうした大衆=未開人のままでいては困るのは、やっぱり困った話かと思います。少なくとも選ばれた人しか座れない場所には自らに多くを課す者が座っていてくれないと、影響が大きい分悪影響も大きく広がってしまいますものね。オルテガに言わせれば、そうした人までもが大衆=文明社会の未開人だ、ということになるでしょうか。言い方変えればプロじゃなくて(もしくはプロの顔した)素人がやってる、ってことになるでしょうか。
…あれ、なんだか出口なしのようなお話になってしまいましたね。
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/28/200023
お話その168(No.0168)