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都市の変化とアノミー 〜メディアも街も、絶え間なく変わっていく….
そのようなわけで、都市の大衆がなぜアノミーになるかといえば、メディアが目まぐるしく変わるから、と考えられるのでした。もうちょっと考えてみましょうか。
集合表象とアノミー
前にも書いたかと思いますが、人間の精神も最初に与えられたものを前提に物事を捉えたり、考えたりすると、一応そう考えてみることにします。動物でいう刷り込みと同じようなもので、ヒナが初めて見たものを親と思うのと同じように、子供の頃に当たり前だと思っている価値観をとりあえずは正しいものだと思う。とりあえずそう考えておきましょうか。
もちろん大人になってから変わったり学んだりしたりすることはありますね。目上や部下に対する態度というのは所属する組織によって決まってくるかもしれません。ですから属した場所によって学ぶものは変わりそうです。ですがそれゆえに違う組織や集団に属し直すとやり方が変わって困惑することもありえそうです。これを集団的態度の価値観として考えると、やっぱり最初に身につけたものを前提にして考えがちであり、その価値観から引き剥がされるとどうしていいかわからなくなる=アノミー化する可能性はありそうです。こうして考えてみると生まれた環境の価値観とか子供の頃に当たり前だと思っている価値観というより、慣れ親しんでしまって変えることが難しいくらいの価値観と言い直した方がいいのかもしれませんね。そしてこうした価値観が集団の中で生じるものであれば、やっぱり集合表象の一種として捉えることも出来るかもしれませんし、引き剥がされるとアノミーになるのも納得いきそうな気もします。
変化し続けるメディア環境
そのうえで都市におけるメディア環境は絶え間なく変化していきます。そして集合表象がメディアによって形成されると仮定すれば、メディアによって伝えられる情報が変わるにつれて集合表象も変わっていきそうな気もします。それらは徐々に変わっていきますが10年も20年もしたらまったく変わってしまいます。すると生まれて育っていく間に慣れ親しんでいた価値観とも引き剥がされやすくなるかもしれません。
変化し姿を変えていく街(=都市)
ついでに都市は街自体もよく変わります。大規模な再開発などでなくても、近所の店舗は閉めてしまい全然違う店になってしまうことはよくあることかと思います。コンビニがケータイショップに代わりいつの間にかドラッグストアになっている。こうなってくると慣れ親しんでいた風景自体が失われていきます。もし人間の精神が土地と深く結びついているとしたら、こうした変化もかつてあったものから大きく引き剥がされてアノミーになる可能性もあるのかもしれませんね。国破れて山河あり。しかし都市では山河(=自然)に当たるものがビルやテナントになりますから、自然(=当たり前にあるもの)は次々と変わっていってしまいます、江藤淳は生まれた街が戦後ホテル街になっていることに憤り、深く悲しんだことをエッセイに書いていた気がしますが、これはそうした一例かもしれません。
ともかく都市においてアノミーが生まれるとしたら、その周囲の変化(メディア、街自体)の目覚ましさにあるのかもしれませんね。共同体の生きている田舎では、自然は今でも世代を超えて残っているかもしれません。それに比べると都市は真逆で残っている方がおかしく、発展に取り残されたと考えられるかもしれませんからね。
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気になったら読んで欲しい本
パーク『実験室としての都市』
パーク他『都市』
都市論の出発点の本です。都市を生態学の観点から考えていた覚えがあります。なんだかとても値段が上がっています。
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』『メディア論』
マクルーハンの解説書
ついでにマクルーハンの解説書を並べてみました。みな文庫版で手に取りやすいかと思います。読んでないけど。
デュルケーム『宗教生活の原初形態』『自殺論』
江藤淳『成熟と喪失』
江藤淳がどこで上のようなことを書いていたのか忘れてしまいました。もしかしたらネット上で引用されていたのかもしれません。とりあえず代表作であり、戦後の日本のアメリカ化を焦点ともしている文芸批評を載せておくことにします。
ちなみに解説は上野千鶴子です。
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