前回のお話
大衆という問題のはじまり 〜オルテガ『大衆の反逆』話始め
近代的現象としてのアノミーと大衆 〜都市への大移動の結果
アノミーのお話ばかりしてしまいましたが、ちょっと仕切り直して大衆のお話に戻してみたいと思います。アノミーも近代的な現象でしたが大衆も近代的な現象でしたね。どちらも一緒で田舎/共同体から都市/社会へと移動したことによって起こってきたようにここでは書いていた気がします(ちょっと書くの久しぶりだから、私の方がなに書いてたかおぼろげ)。
ちゃんとそれぞれの本を読むとそうした説明でもないかと思いますが、一応ここではわかりやすくするため(なってない?)逸脱しててもこんな説明をしてみました。詳しく知りたい方はぜひ本を読んでみてくださいね(きっと私の説明はまたどこか間違っているんです)。
オルテガの『大衆の反逆』
さて、アノミーはデュルケームという社会学者が出した考え方でしたが、大衆という現象に最初にはっきりとした説明をしたのはオルテガというスペインの哲学者でした。しかも哲学者といってもデュルケームのように大学の先生というだけではなく、新聞を通して活発に論評を載せていた活動的な知識人でもあったそうです。
そのオルテガ先生ですが大衆について書いた本は『大衆の反逆』と題され、ほぼ100年前に書かれました。まず今日(当時)のヨーロッパにおいて大衆と呼べるような人間が充満している、というところから問題を見ていきます。今まではそう大勢の人間は存在していても目に見えなかった、と言えるかもしれませんね。つまり人間の数(というか種類?)は同じであったとしても、それが目に見える形で現れてきたことによって問題も見えてくるようになったのかもしれません。
大衆という問題 〜自らに責務を持たない大勢の人々
ではこうして現れてきた大衆というものはなにが問題なのでしょうか。それはたくさんあります。今述べたように大衆と呼べる存在が社会(ヨーロッパ中)にたくさん現れてきたことによって、彼ら(=大衆)こそが存在の中心になっていることがあげられます。それまでは、一応優れた者が中心にいるとみなされていたらしいのですが、そうではなく何者でもなく何者であるのかもわからないような大衆というものが中心に位置するようになったのでした。
オルテガはまず人間に2種類の前提をおいています。ひとつは自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、もうひとつが自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々(←斜線原文)です。そしてひとつめの人間の在り方を選ばれた少数者として、ふたつめを大衆とするわけですね。
なんだか嫌味ったらしい区別ですが、ここにひとつ但し書きがあります。それは社会を大衆と優れた少数者に分けるのは、社会階級による分類ではなく、人間の種類の分類なのであり、上層階級と下層階級という階級序列とは一致しえない(原文)ということです。そしてこうした上層階級に当たる者の方こそ、大衆の典型的な特徴をそなえているのだ、というのでした。
なんだか久しぶりなせいか、いつも以上にうまく書けなかった気がします。今回はこれで終えておくことにします。
次回のお話
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気になったら読んで欲しい本
オルテガ『大衆の反逆』
オルテガの本です。比較的読みやすい書き方をされています。新聞を掲載場所に選んだジャーナリスティックな哲学者のため、アカデミックな難解さとは全然違うそうです(見直して解説読むとそう書いてあった)。ですから読もうと思えば読めるかもしれません。
100年も前の本ですが、多くの人が今の日本の問題と言います(解説にもそうした感想が書いてあります)。私もそう思います。もし今の世の中なんじゃこら、と思われる方がいらっしゃいましたら、デュルケームの『自殺論』(アノミーについての考え方)と共にこの本を読むのがいいと勝手に思っています。
デュルケーム『自殺論』
一応こちらも載せておきます。説明は前回までに書いたかと思いますので割愛しておきます。
次回の内容
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前回の内容
お話その159(No.0159)