前回のお話
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アノミーと現代社会 〜これが我々の生きる世界?
とりあえずアノミーについては前回のお話ですませてしまったものとして、もう一度アノミーっていうものを考えてみますと、なんだか特別なものではないような気がしてきます。むしろごく当たり前に日常的に起こってくるような現象な気がしてきますね。
転校や転勤・異動という社会的変化
だって具体的な人間関係から孤立し、それまでの社会秩序や価値観から引き剥がさらてどうしていいかわからないなんて、生きていく中でいくらでもある気がします。たとえば転校して誰も知らない学校へ入った時は誰しもどうしていいかわからなくなるかと思います。そういえば明石家さんまですら、転校した時はまたいちからか、と憂鬱になったと言っていたことを覚えています。まず間違いなく日本一のコミュニケーション能力の保持者がそんなこと思うのでは、日本人なら誰しも同じ環境におかれたら思うでしょう(だってさんまでも思うんだもん)。
そして転校は親の都合によって起こりますが、小学校から中学、高校へと変わるのは現代日本の教育課程において必ず通らなければなりません。また就職しても異動や転勤なんて会社が大きければ大きいほど当たり前になります。下手をすれば学校と違い聞いたこともない海外にすら飛ばされてしまいます。こうなると日本人として当たり前に持っていた価値観(もしくは集合表象)と引き剥がされて孤立化してしまわない方がおかしいような気もしてきますね。
日常的に起こりえるアノミー?
つまりデュルケームがアノミーとして分析した現象は近代社会においては日常的に起こってくるものなのだ、ということが出来るかもしれません。そういえば社会学者の作田啓一もアノミーが集合表象との不一致から生じるのならば、常に一致している場合の方が珍しく思える、というようなことを書いていたような覚えもあります。むしろアノミーは当たり前? なんて気にもなってきますね。
ですがだからといってアノミーを当たり前と考えるのは間違っているでしょう。それは精神病に対する無理解と同じで、誰だってそうなんだからお前だけ文句言うな、という考え方と通じるかと思われます。
歴史的変遷の帰結としての近代社会とアノミー
そうではなく、むしろ近代という時代に入って人々が共同体のような安定した(しかし停滞した、ともいえる)田舎から都市へと移動することによって、アノミーが常態化させられるような社会へと歴史的に変化したからなのだと思います。中世が共同体によって安定していた代わりに王や領主に逆らえなかった世界であるように、近代は自由である代わりにアノミーを強いるような世界なわけですね。おそらくそうした側面があるから20世紀後半は近代批判の思想が強くなったのかもしれません。
こう考えてきますと富の中心が土地から生産に変わり、人も田舎/土地から都市/生産地へと移動し、そうした歴史的変化から大半が都市で暮らすようになり、都市であれば常に変化する環境にさらされ続ける、となると、やっぱりアノミーは常態化するようにも思えますね。ですがそうしたアノミーの常態化自体が歴史的な現象で逃れることはできず、人類は本来的にはかなり無理をした環境に身を置いているのかもしれません。
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気になったら読んで欲しい本
デュルケーム『自殺論』
アノミーという考え方を出した本。私は現代社会の様々な問題はこの本一冊読むことによってかなりよくわかるようになると思っています。
作田啓一『価値の社会学』
作田啓一がアノミーについて書いてあったのはこの本かな。ちゃんと読んでなくてぺらぺらめくっただけなのでもしかしたら全然違う意味で書いてあったのかもしれません。
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お話その158(No.0158)