商品イメージの細分化 〜記号的差異化によって生まれるバージョン違い
広告は商品にイメージを結びつけることによって消費者へと買ってもらおうとします。その際のイメージは性的なものがよく使われる、というわけで芸能人が男女共にイメージを生み出すシンボルとして必要不可欠だ、というように思われたのでした(私の勝手な考えで間違ってたらごめんなさい)。
あふれる広告イメージ
さて、商品はあまりあるほどにあるもんだから、買ってもらうためには広告が必要でした。しかし消費者は広告すらも飽いてしまっています。商品の数だけ広告もあるので、広告もまたあふれてしまっているからです。そのため広告主は常に新しい方法を探っています。その1つが新しいタレントの発掘ですね。同じようなイメージを生み出すタレントでも新しい人の方が目新しく見えるので、同じ広告のやり方でも商品を新しく見せることが出来ます。
差異化される商品価値
しかしそうしたやり方とはまったく違うやり方もあるようです。それは商品の在り方をちょっとずつ変えていく方法だといいます。
たとえば限定品というものがありますね。昔はスニーカーなどが多かったかもしれません(よく知らない)。他にもTVゲームなど初回限定版なんてのもありました。これはゲーム自体は同じなのですが、パッケージのデザインが違うとかおまけがついているとかですね。
ここでお話ししてみたいのは、同じ商品でもデザインが違う、というような場合です。
機能による商品の差
たとえば限定品に明らかな機能の差があれば、その違いは明白です。ブルーレイレコーダーで番組を指定して録画するのと一週間全部の番組を録画してくれるというのは、はっきりと機能の差です。購入者の使い方によりますから一概に言えませんが、一週間すべての番組を録画してくれる機能のついている方が高機能種といえるでしょう。いわば上位機種なんですね。そのため1つずつ番組を録画してくれるブルーレイレコーダーよりも、一週間すべての番組を録画してくれるブルーレイレコーダーの方が値段が高くなります。これは当たり前に納得いきそうですね。
バージョン違いの商品の差
一方、とあるゲームがあるとします。なんにしましょう。マリオにしておきましょうか。同じマリオのゲームが2つのバージョンで出たとしましょう。片一方は普通のバージョンです。また一方は特別にクッパでプレイ出来るとします。マリオシリーズの悪役ですね。本来マリオを使って倒さなければならないクッパでゲームを遊べるわけです。値段は一緒でもいいのですが、クッパでプレイ出来るバージョンを特別版として500円高いとしてときましょうか。
この2つのゲームは内容は一緒です。ゲームのスタート時点からクリアするまでなんの違いもありません。ただクッパでプレイ出来るかどうかしか違いがありません。
ただそれだけの違いなのですが、500円の差がついています。ではクッパというキャラクターに500円の価値があるのでしょうか。ですがクッパであろうとマリオであろうとキャラクターの動きはまったく同じです。じゃ、一体なんの差なんだ、といえば、クッパというキャラクターの差です。
よく知った者にだけ気づかれるちょっとした差
まぁ、マリオシリーズのゲームを遊んだ人ならばこの違いは一目瞭然かもしれません。しかしやったことのない人からすれば、ゲームの内容が同じなのに値段が違うことが理解出来ないことだってあります。でもその人はファッショナブルな人だったとして、エアマックスの差を熟知しているかもしれません。でも知らない人からすれば色が違うだけの同じ靴に値段の差があることがわからないことだってあります。
これもまた1つの広告技法(いや、販売方法なのかな)のようです。商品そのものにはAもBも違いはないわけです。99%同じなのですが、ほんのちょっと、よく知っている人にしかわからないような違いをつけておきます。すると同じ商品がバージョン違いの2種類の商品に化けてしまうのです。
同じ物を違う商品にしてしまえる技術
こうすることによって普通に同じ商品しか生産していないにも関わらず、違う商品として売ることが可能になってきます。靴の生産は生産工程は変わらないのに、色や布地によって変化させ商品の種類を生み出すのです。またこれが明らかな品質の差(布地や紐)があれば上位品種になるのですが、そうした品質の水準では同じままです。なら違いは何か、といえば色や形といった差でしかないのでした。
こうした方法をとることによって商品はさらに細分化させることが出来ます。それも自分たちの持っている商品の中で細かくわけてしまえるのでした。これを記号的差異化と呼ぶようです。
気になったら読んで欲しい本
【ボードリヤール『消費社会の神話と構造』『象徴交換と死』】
こうした記号的差異化についてはボードリヤールの本が古典的な地位にあるかと思うのですが、煙に巻くような文章で読んでもよくわかりません。そのためたしかにボードリヤールはそう言っているのですが、それがどこだったか、どのような説明であったかは私にはわからなくなってしまっています。一応代表作と思われるものを載せておきます。
【大塚英志『物語消費論』】
で、その記号的差異化というものを80年代の日本の状況に即して説明されているのがこの本です。内容はビックリマンシールの分析なのですが、簡単に言えばビックリマンシールの商品はお菓子としてのウエハースでもなければついているシールでもなく、その背景にある体系だ、ということになります。
ビックリマンシールというのは当時子供たちの間で大ヒットしたお菓子で、おまけとしてシールが一枚ついています。しかしシール欲しさにお菓子は捨てるということが大きな問題にもなりました。そのためお菓子(食べ物)ではなくシールを売っていると非難された様子です(今なんて雑誌でカバンや美顔器がついてる時代ですけどね。そのはしりみたいなものです)。
著者はこれをさらにつっこんで、シール自体も商品ではない、と喝破しました。それはAやBやCというシールが欲しいのではなく、そのシール全体が持っている物語が欲しくて買っているのであり、物の背後に存在している体系やシステムを消費しているのだ、と言うのでした。それどころかこのシステムに則っているのならば、誰かが新しいシールを作ったとしてもそれは偽物であるのか本物であるのかは本質的に区別がつかなくなるとも言います。
つまりここまでくると、商品が物そのものである必要がなくなってくるのでした。具体的な物はただ背景に存在する商品(見えないシステム)を反映させていればよく、そこには本物と偽物の境界線まで消えてしまうというのでした。
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お話その118(No.0118)