前回のお話
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哲学者の生き方としての観照的態度
ヘーゲルは大体系を築いた大哲学者でしたが、社会的には王様でもなく富豪でもありませんでした(多分貴族でもなかったと思う)。そのためマルクス(だったかな?)なんかはいくら偉かったってただの一学者一教授、なんて言い方で批判もしたりしました。
しかし、じゃあヘーゲルはなにも単なる哲学者でしかないからこんなこと考えたのか、と思ったりもするのですが、そこはそれ哲学者には哲学者の歴史的背景というものもあったりしました。ちょっとそんなところでも今回お話してみたいと思います。
ヨーロッパ諸学の王アリストテレス
ヨーロッパの哲学の源流は常にプラトンとアリストテレスに遡れます。よく言われる格言にはヨーロッパの哲学や学問はアリストテレスの注釈に過ぎない、なんてのまであったりするのですが、それはアリストテレスがほとんど学問の全領域を1人で基礎固めしたような側面があるからです。そしてアリストテレスを範とするヨーロッパの哲学はこうしたアリストテレスのような体系を築くことを夢見るのであって、ヘーゲルはその近代版として完成された哲学者だと言えるわけですね(中世版はトマス・アクィナス)。
【アリストテレス全集】
(これを全部読めばきっとあなたも哲学者。みたいなキャッチフレーズが浮かびますが、それに引き寄せられてやる人はいないでしょう。いたら偉い)
しかしなぜアリストテレスはそんな学問の全領域を覆うような真似が出来たのでしょうか。理由は色々あると思うのですが、たとえばギリシア思想の出そろった頃に総まとめしたからとか、アリストテレスが特別優れていたからとか、アリストテレスにマケドニアの強い支援があったからとか、ぱっと思い浮かべてもいくつか出てきますね。
【『ソクラテス以前哲学者断片集』,『ヒポクラテス全集』,『ユークリッド原論』】
(こういうものがアリストテレス以外にも既に蓄積されていたわけですね。こんなのが一地域の一民族にのみで成立したわけで、ギリシア人は偉いとみなされているわけです)
アリストテレスと観照的生活
ですがそれと同時にアリストテレスの考え方というものもあったかもしれません。それは人間にとって観照的生活こそがもっとも優れたものだ、というものです。
富か名誉が、はたまた真理か…
これはどういうことかと言いますと、アリストテレス先生曰く、人間には大体3つくらいの理想的な人生がある、と言います。ひとつめが名誉を求めるもの。ふたつめが富を求めるもの。みっつめが真理を求めるもの。そしてそれぞれ軍人や政治家、商売人、哲学者として具体的な職業が結びつけられていたりします。
私たちが生きている現代世界では、多分真理を求める生活は誰も見向きもしないでしょう。恐らくまずお金、ついで有名になること、このどちらかで、ただその順番がどっちかわからないだけではないかと思います。
しかしアリストテレスはこうしたものは世俗的なものであってそのうち失われるものでしかなく、また不確かなものでいつ失われるかわからないものだとします。それに対して真理というものは動くことがないのだからそれを得ることは失われることのない絶対の認識を得ることであり、それこそが至福となるものである、とこう考えるわけです。
真理を求める人生、哲学者
そのためヘーゲルは王様(名誉、権力)でもないし富豪(お金)でもないけれど、哲学者として大いなる認識を得たので世俗の領域を超えて偉いのだ、というように考えられるわけです。
ただきっと現代人にはこうした捉え方はされないでしょう。そしてヘーゲルの後の時代にもそう考えられることはなくなってきたようです。
次回のお話
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お話その297(No.0297)