前回のお話
中世におけるアリストテレスの問題点 ~版違いで異なる内容、イスラーム経由での歪み、別人の著作との混同、という様々な問題 - 日々是〆〆吟味
プラトンの根源的思考としてのイデアとキリスト教
キリスト教というものがあまりアリストテレスとなじまないものだとして、しかし中世においてはアリストテレスによってキリスト教というものは基礎づけられました。けれどもそれは中世の中頃から行われてきたもの(だったと思う)であり、キリスト教というものはもっと前からありました。それこそ古代のローマ時代からあったわけですね(だって西暦はキリストの生まれた年からですしね)。
キリスト教とプラトン
じゃあ中世以前のキリスト教っていうのはどんなもんだったのか、アリストテレスとなんか関係あったのか、などと疑問に思ったりすることも出来ますね。そしてアリストテレス哲学と結びつく前のキリスト教というものはプラトン哲学と結びついていたと言います。
アリストテレスの考え方にはかなり経験主義的な側面があります。動物もちゃんと解剖して確かめたりしていますし、別に理屈をこねて考えるだけで結論をだしたわけでもないわけです。なぜアリストテレスがそうした態度を持てたかといえば、それより前にヒポクラテスというお医者さんがいて、その人たちのやり方が経験主義的なものであってアリストテレスもそれを踏まえたのだそうです(と、解説に書いてあったと思う)。
【アリストテレス『動物誌』,ヒポクラテス『古い医術について』】
(アリストテレスの経験主義的な本はこちら。またヒポクラテスの本はこちらです。ヒポクラテスは全集も出ているようですが、とても高価です。岩波文庫では数編まとめられたものが簡単に読めます。比べてみてどれくらい経験主義的なのか見てみるのも面白いかもしれませんね)
プラトンとイデア
それに対してプラトンの考え方というのはかなり独特です。というのもプラトンの考え方の基礎にはイデアというものがありまして、この世のものはこのイデアのそれぞれの現れ方だ、というような考え方をするのです(なんか前にも書いたような気がする)。
【プラトン『国家』】
(プラトンのイデア論はこの本でしょうか。私はプラトン難しくてよくわかってないので説明はやめておきます。とほほのほ…)
たとえばお花があったとすれば、そのお花は綺麗なわけですね。美しいわけです。目の前のお花が美しくて、綺麗なお花、と私たちは捉えることになります。
しかしプラトンはこの考え方を逆転させます。目の前のお花に美しいものがあるのではなく、美しい、というものの元々のものがあり、それが美のイデアという風に考えます。つまり私たちの感じるものの根源に核となるものがあって、それが目の前に現れているから私たちは知ることが出来るんだ、というわけですね。そしてそれをイデアと呼ぶわけです。
イデアと根源的思考とキリスト教
なんだかわかるようなわからないような説明です。私の説明がヘタクソだからということもあるのですが、当時のギリシア人にとっても風変わりな考え方のように感じられたそうです。しかしこうした考え方は目の前の様々な物事に対して統一的な根源を設定するという点で思想史的な大転換であったともいいます。
そしてこのプラトンの考え方は物事における根源というものを設定する点においてキリスト教の考え方と接近することが可能になります。というのもキリスト教では神さまが全ての根源ということになります。そこで古代のキリスト教思想家はプラトンから学んで初期のキリスト教思想を組み立てていったそうです。
それが中世になってアリストテレスの全体像が知られるようになって、プラトンからアリストテレスへと支えとする哲学が変わってくるわけですが、それでもプラトン的な側面は残ったままだ、とかも読んだりするのですが、そこまでは私にはよくわかりかねるのでした。キリスト教も一筋縄ではいかないということでしょうね。
次回のお話
新プラトン主義とキリスト教の結びつきと大きな影響関係 - 日々是〆〆吟味
お話その261(No.0261)