日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

日本人が空気を読むという、日本的現象の社会/歴史的原因 〜日本の情緒的文化圏、無階級社会、近代的大衆社会とヨーロッパの過剰な論理的文化圏、明確な階級社会の対比と、共通する近代的大衆化問題

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前回までのお話

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空気を読むことに関するものをまとめたのはこちらになります。今回の内容のものも含めて異なる角度からも説明してみたものですので、もし今回のものを読んで飽きたらないと思われましたならご覧になってみてください。

www.waka-rukana.com

 

空気を読むという、日本的現象の社会/歴史的背景

日本において空気を読む理由というのはどのような理由で現れてくると考えられるでしょうか。おそらくこの問題こそ未だ解決していない難問なんだと思いますが、一応簡単にだけ触れてみたいと思います。

 

ヨーロッパの論理的文化圏と、日本の情緒的文化圏

まず日本に対してヨーロッパを範とするのが近代日本の在り方でした。そしてヨーロッパはウェーバーが述べるように過剰に論理的な文化圏です。ですからそうしたヨーロッパ産近代を日本に移植する際、日本においても同じだけの論理性を持たなければなりません。これがひとつの課題でした。

 

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(ちなみに日本はずっと大国のそばにいるので、そうした大国から学んで自分のものにする国だ、という考えもあります。この観点からすれば、日本は文化的に大国からやってくる文物を取り入れ、自分たちで原理原則を作り上げることが下手だ、ともいえるかと思います。これもまた空気を読むひとつの文化的背景かもしれません)

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しかしヨーロッパは古代ギリシアの時代から哲学をしてきた文化圏です。近代哲学に入っても物をどうやって人間は理解しているのか、ということまで徹底して考えています。それに比べると日本の古代は万葉集に代表されるような、情緒を表現する文化圏でした。それを前近代末期に入って本居宣長もののあわれ、として取り出したのですが、いわば古代でも前近代末期において自分たちのルーツとみなしたものも、どちらも論理的なものではなく情緒的なものだったわけです。そうした中でヨーロッパ的近代を受け入れることは大変な困難をともなうと考えられます。そして社会的に論理的なコミュニケーションをとるよりも情緒によってコミュニケーションするような空気を読む行為が現れてくるとも考えられます。

 

ヨーロッパの階級と日本の無階級

次に階級問題があります。身分制度は日本にもヨーロッパにもありました。しかし日本では基本的に今は明確には存在しないと思えますが、ヨーロッパでははっきりと残っています(イギリスでサッカーファンということは、労働者階級を意味する、なんて読んだこともあります)。大衆に対して貴族、もしくはエリート層というものは明確で、だからこそ二大政党制が成り立ちます。しかし日本はこうした身分制度を持ちません。ですから社会層として対立するようなものがなく、大衆層が優位になるかエリート層が優位になるか、という形で一面的になってしまうかと考えられます。

 

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以前新聞で人権問題撤廃の日かなにかというのでコラムが書かれていました。そこでは戦後大変高名であったフランス文学者の桑原武夫の話が引いてあり、日本において明治政府の行った身分制度撤廃はヨーロッパの比ではなく徹底的だった、というのです。これを私なりに考えてみますと、明治維新の立役者となった人たちは大半が下級武士階級に属していたそうです。とはいえ新しく発足した明治政府において彼らは政治指導者です。しかし旧時代の身分制度から見ればでかい顔してるのはおかしい、と思われかねません。そのため旧身分制度を徹底的に破壊することによってしか自分たちの地位を安定させることが出来なかったのかもしれません。ともかくこうした徹底した身分制度の撤廃によりヨーロッパ的な階級対立は日本には存在しないことになります。これはヨーロッパに比べて日本の方が立派だと思います。

 

近代化にともなう人間の大移動 〜大衆の問題

続いて近代化における人間の移動の問題があります。近代以前というのは基本的に農業が中心です。そのため土地に縛り付けられて大半の人は生きているのですが、代わりに生まれた村から生涯出ることなく暮らしています。しかし近代的経済体制、すなわち産業革命以降になりますと農業ではなく生産が経済の中心になります。そして生産は工場で行われ、国中から人を集めて一か所で働かせるのです。こうして今までは生まれ故郷でしか生きてこなかった人間が、全く背景の違う者同士一緒に生活させられるようになります。ここから都市も生まれてきますが、同時に大衆という人間の群れも現れてくるのです。

 

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こうした大衆問題はヨーロッパでも日本でも同じです。そのためヨーロッパの大衆状況に対して先鋭な批判をしたオルテガの『大衆の反逆』という本も現れました。それは大衆は無責任で自分のことばかり考えて責任をとらない、というもので(それだけでもないんですが、ここでは簡単にそうしておきます)、代わりに自己鍛錬を果たした貴族(もしくはエリート)が責任を果たさなければならない、とでもいうものです。しかしこれは大衆を馬鹿にしたものや貴族の偉そばりとして読むのではなく、歴史的な変化によって人間が大挙して移動してしまった、ということであり、その結果かつてあった秩序が変化してしまった、ということに応対して現れた考えだと読む方がいいと私は思っています。

 

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さてこうした大衆状況ですが、日本では神島二郎という人が同じように庶民意識を分析したことがあります。それはかつて(近代以前)の庶民は村人で、その村に存在していた規則を守って生きていた。しかし近代化することによって都市部に吸収されそうした規則から切り離されてしまった。しかし都市部に行ったからといって代わりになる規則などなかった。そのため日本中からやってきた村人たちは、それぞれの村の規則のようなものを都市部において行うようになった。元々の村が第一の村であるとすれば、都市部は第二の村として現れた。しかし第二の村は第一の村と違い、昔から存在していたような規則の連続的合理性を持たない。そうした第二の村が主要な意思決定の場を占めてしまうのでヨーロッパ的な市民社会が育たない。多分こんな感じかと思います(神島二郎の本はとても読みにくいので、ちょっと自信がありません)。

 

こうした大衆状況はヨーロッパや日本だけでなく、近代化した国すべて起こってくると思われます。しかしヨーロッパは階級社会ですので、大衆に属さない層が一定数あります。しかし日本はそうした身分制度を撤廃することに成功しましたので、逆に大衆以外の階層が存在しないことになってしまったのだと思います。誰だったか、大衆社会の問題はすべて日本に当てはまる、と述べていた人がいた覚えがあります(日垣隆だったかな)。

 

そして大衆はマスコミュニケーションの対象です。マスコミのマスは大衆のことです。ですからマスコミの仕掛けるイメージ操作に左右されてしまいます。そしてイメージもまた論理的なものではありません。知識人がそうした大衆へのイメージ操作を批判しても大衆にとってはうるさいだけです。むしろ自分たちの好きなものにケチをつける嫌なやつでしかありません。それでも知識人層が存在していれば社会の意思決定を担う者へ働きかけることも有効ですが、大衆しか存在していない(つまり知識人層に配慮しても旨味がない)のであれば、大衆にしか目を向けずに意思決定をしていきます。そしてその際社会の意思決定者もまた広告的手法でイメージによって大衆を説得してしまいます。

 

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こうなると空気を読むということと同じことが起こってきます。つまり論理性ではなく感情や情緒、伝播によるものを上位において意思決定するわけです。つまり空気を読むという問題は大衆支配の問題でもあるわけですね。日本ではそれを空気を読むと紋切り型になっているのは、丸山眞男が戦後最初に優れた論評をしたためともいえます。この場合日本人は空気を読む民族だ、というのは半分間違いかもしれません。空気を読むかどうかは別として、大衆社会では似たようなことが起こってくると考えられるからです。

 

 

こうした問題は、世界の近代化と日本の古層から考えられる文化的特質の混ざり合ったものと考えられるかもしれません。大衆問題は近代化した国では必ず現れてきます。しかしその現れ方はその国々で違います。たとえば資本主義の成立もウェーバーエートスという考え方で表しましたが、それはカルヴァン派の宗教倫理から生まれたと考えられました。それを日本では儒教の文脈で論語を通して掴みました。そのため日本資本主義の父である渋沢栄一の本は『論語と算盤』なのです。これと同じように大衆問題も日本的に現れてくると考えることは無理があるとも思えません。そして日本版大衆問題として、空気を読む、ということが概念化されるかと思います。

 

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気になったら読んで欲しい本

ウェーバー音楽社会学』 

ウェーバーの大著の付録として書かれたものですが、音楽という本来感覚的なものであっても、ヨーロッパは五線譜で論理化してしまうほどに過剰論理的な文化圏である、というようなことが書いてあったかと思います。

中島義道『ウィーン愛憎』 

哲学者によるドイツ留学記ですが、ドイツでの徹底した論理的対立が滑稽さも含めて書いてあります。こうした姿がヨーロッパ的だとすれば、最近の日本におけるクレームなどちゃんちゃらおかしくも感じてしまいます。下宿先でガスストーブからガス漏れてるので危険だから直して欲しい、と言っても、前の人はそんなこと言わなかった(アンタがおかしい)といって取り合ってくれない大家さんの話などあります。これをひとつずつ理屈でねじ伏せていくわけです。もしかしたら、ようやく日本はヨーロッパ的水準に達したのかもしれません(でも漱石はそんなイギリスに行って病気になっちゃったけど…)。

本居宣長『玉勝間』 

日本におけるナショナリズムを形成した本であり、日本の文化的特徴をもののあわれとした本でもあります。ただ私は読んでいません。

丸山眞男『忠誠と反逆』 

で、丸山眞男本居宣長に対して日本の古層をえぐり出そうとした本。と思うのですが、これも読んでいませんので内容については言うことが出来ません。

ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』 

イギリスではサッカーファンは労働者階級、ていうのはこの本で目にした気がしますが、読んではなくてぺらぺらとめくって適当に拾い読みした時に目に入ったので、もしかしたら間違った文脈で紹介しているかもしれません。

ノーマン『日本における近代国家の成立』 

明治政府を担った者たちは下級武士出身者だった、ということはこの本で読んだ覚えがあります。なんでも当時の幕府や藩の高級官僚にあたる武士たちはすっかり腐敗してしまっていたので、実務を取り仕切っていた下級武士の者たちが結局西欧諸国との交渉や内政を行える唯一の層になったのだそうです。そしてそのまま維新後の政府も取り仕切るようになったわけですね  

オルテガ『大衆の反逆』 

オルテガの本。とても重要なことが書いてあります。ほとんど現代日本の姿のように見えるのですが、とても100年近くも前に書かれたとは思えません。これはつまり、この頃に私たちの社会が歴史的な激変を起こして今の形になった、ということかもしれませんね。ネット社会はこれと同じくらいの歴史的激変になるのかは気になるところですね。

神島二郎『近代日本の精神構造』 

神島二郎の本。内容は上に書いたようなものしか覚えていません。とにかく読みにくい本で、別に難しくて読みにくいわけではないのですが、文体が読みにくいのでしょうか。注も多いし解説の従軍体験の話も熱を帯びている、不思議な本です。

ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 

ウェーバーが資本主義の成立の条件として宗教的な倫理を見出しました。エートスとして概念化されるのですが、これはヨーロッパにおいてなぜ近代資本主義が成立したのか、という問題によって探求されました。

渋沢栄一論語と算盤』 

そしてこうしたエートスを非ヨーロッパ圏でいかにして掴み取るか、ということが資本主義後進国の大きな課題でした。そして日本では儒教を通してそれを可能にしたわけです。どこで読んだか忘れたのですが、非ヨーロッパ圏で資本主義化に成功したのは儒教圏だそうです。となるとやはり文化圏ごとに現れてくる社会現象の差というものはあると考えられそうです。

 

続きのお話

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