前回のお話
キルケゴールのあれかこれかとヘーゲルのあれもこれもの弁証法 〜ヘーゲルの聴講者キルケゴールの疑問 - 日々是〆〆吟味
ヘーゲルの壮大な大体系と小さな人間
ハイデガーとか実存主義とかになりますと、なんだか人間の実存主義という苦しそうなものを捉えた大変な哲学のように思えてきますが、どうも遡ってみるとヘーゲルみたいな人にぶつかってしまいそうです。
ヘーゲルと人間
しかしヘーゲルはそんな人間個人のことなんて苦しみの形ではそんなに考えていないような気もします。多分個人というものを焦点にしたものは『精神現象学』になるのかもしれませんが、ここでは人間は神の領域とでもいえそうな絶対知にまで向かっていく、そんなすごい精神成長のモデルを描いているようにも見えます。なんかみじめな人間の姿なんかなさそうです。むしろ超偉大な人間精神がそこにそびえていそうです。
大体系と人間の位置
そんなヘーゲルの哲学は壮大な大体系によって築かれていると言えます。そのため逆に言えば人間存在のみじめな存在の姿が掻き消えてしまっているともとれます。そういえばもっと前の哲学者パスカルは、デカルトの我思うゆえに我あり、をパラフレーズして、人間は考える葦である、と言いました。それは人間なんていうのは岸辺に生えた、風に揺られ、どのようになるかわからないような葦のようなはかない存在である、しかしその葦は考える葦であり、考えるということによって自分の存在を知る偉大な葦である、と、こういったわけですね。
【デカルト『方法序説』,パスカル『パンセ』】
(2人のフランス哲学者による人間への考えたかはもしかしたら似ているのかもしれませんが、2人はほぼ同時代人でもありました。それが時を経るとヘーゲルのようになっていくのかもしれませんね)
このパスカルの言葉にはデカルトによって発見された人間なるものの儚さと偉大さがどちらも現れています。しかしヘーゲルになると、この葦と形容されたみじめさや儚さが抹消されてしまっており、代わりに偉大な側面としての人間がすべてを覆っているかのようになってきます(違うかなぁ…/コジェーヴを読むと違うらしい)。
ただの人間としての哲学者
しかしこうしたヘーゲルの大哲学を前にして、お前は確かに偉大な哲学者で凄まじい認識者かもしれないが、現実の自分はただの一大学の一教授ではないか、神でもなければ王でもない、ただのそこらにいるみじめな人間の一人だ、というようなことをマルクスは言ったらしいようなことをどこかで読んだのですが、いわばヘーゲルから離れて認識者としての人間ではなく人間存在そのものを捉えるようになっていったのがヘーゲル以降なのかもしれません。
【マルクス・コレクション】
(マルクスがどこで言ったのかわかりませんので、なんか色々入っていそうなものを選んで載せてみました。ちなみにこのコレクションの中に入っている『資本論』が1番読みやすい訳だそうです。へ〜)
そしてヘーゲル以前と以降では、たしかに哲学というものがちょっと変わってきたようにも感じたりもするのですが、それがどうしてこうしてそうなったのかを理解できるまでには私はなっていないのでした。なんとも難しいお話ですね。
お話その296(No.0296)