前回のお話
ショーペンハウアーにおけるヘーゲルへの反抗とニーチェの先駆者
ニーチェがヘーゲルに対して直接対抗していたかはわかりませんが、ヘーゲルの同時代に直接対抗していた哲学者は確かにいました。それはショーペンハウアーという人です。
ショーペンハウアーは哲学者の例に漏れずかなり変わった人です。まず生まれから少し変わっていますが、なんでもショーペンハウアーの母親はゲーテの取り巻きの1人だったそうです。そのためショーペンハウアーが少年の頃ゲーテから直接、君は偉大な人物になる、というようなことを言われたこともあるそうです。なんだかすごい逸話ですね。
ショーペンハウアーと哲学
そんなショーペンハウアー先生ですが、自分が哲学を学び始めた時に師匠から言われたことがあるそうです。それは哲学をやるならプラトンとカントを学ぶまでは他の哲学者を読むことを禁ずる、といったもののようです。それをどうやらショーペンハウアーは律儀に守ったらしく、プラトンとカントをマスターして自分の哲学をうちたてました。
【プラトン全集,カント全集】
(全集のまとめたものでも出てこないかと思っていたら出てこなかったので、一巻だけ載せてみました。それぞれ15巻以上あります。わぁ、大変)
それが『意思と表象としての世界』という、なんだかひところ流行ったセカイ系のタイトルのような哲学書の題名ですが、これがちっとも評価されませんでした。黙殺と言っていいほどだったそうですが、時折しも悪く、ヘーゲルが哲学者として盛名を誇っていたので誰も見向きもしてくれませんでした。
【ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』】
(世界の名著にも入っているのですが、たしか正続とある中の正編のみになるはずです。全部読もうとしたらショーペンハウアー全集にあたるしかないかもしれませんが、そんなことは後にしてもし読みたかったらこれを読めばいいと思います)
ヘーゲルとの講義対決
そこでショーペンハウアー先生はヘーゲルに挑みかかりました。ヘーゲルが大学で講義をしている時間に、わざと自分も別の部屋で講義を行なったのです。しかし人気のあるのはヘーゲル先生。ショーペンハウアー先生は人っ子1人いない部屋の中でぽつんと残されてしまったそうです。かわいそうなショーペンハウアー先生。
カントに対するヘーゲルとショーペンハウアー
またショーペンハウアーはカントを引き継いだような面があるそうなのですが(誰かがそう書いてた。読んだけど私にはさっぱりわからなかった)、ヘーゲルはどちらかというとカントを引き継ぎながらカントを越えていこうとしたところのある哲学者でした。少なくともヘーゲルはカントが論理的に対立したものは経験的裏づけがなければ本当に正しいことはわからない、としたのに対し、弁証法というものによって相矛盾したものであっても乗り越えた新しい考えを生み出す、として、カントの理性における踏みとどまり方を簡単に越えてしまいました。これが正しいかどうかは別として、現代まで続く肥大する欲望のモデルとなったことは間違いないような気もします。
【ヘーゲル『精神現象学』】
(対立する意見を合わせてより優れた意見へと昇っていく弁証法というものにより、人間の精神はどこまでも昇っていけるものと想定されました。しかしその上昇のメカニズムを精神ではなく欲望に変えると、資本主義社会において底なしの終わることのない欲望の列車に乗ることになってしまいます。案外ヘーゲルはそんな風に読むと納得いくかもしれません)
それに対しショーペンハウアーはカント的な踏みとどまりから諦観によって生を眺めるところがある気もしますが、なにせ読んでも私にはわかりませんので、もしよければどこかで見かけた時にでもぺらぺらとめくってみてください。
あぁ、それにしてもニーチェもショーペンハウアーもかわいそう…
次回のお話
お話その294(No.0294)