日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

日本特殊論(日本は変な国で日本人は変)の歴史的背景としての中心と周縁の思想的自覚の差 〜自己中心的思考とは思想的中心であれば普遍的とみなされ、周縁であれば特殊的とみなされる

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前回までのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/25/190035

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/26/190017

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/27/190039

 

日本特殊論とその背景 〜中心たるヨーロッパと周縁たる日本の自覚の差

ではこうした日本人特別論、もしくは日本特殊論はどうして現れてくるのでしょうか。

 

近代化の原点としてのヨーロッパ 〜世界に行き渡るヨーロッパ的価値観

また近代化のお話になりますが、近代を生み出したのはヨーロッパであり、近代的文物というものは基本的にすべてヨーロッパ産でした。そのため非ヨーロッパ圏の国々ではヨーロッパ化することこそが近代化を意味しました。日本でもそうですね。ですから西洋に追いつけ追いこせと頑張りつつ、しかしその急性さが浅薄さとも結びついて夏目漱石なんかが嫌ったわけです。

 

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そうした中、ヨーロッパ圏の思想や文化は普遍的なものであるとみなされました。そもそも哲学は普遍的なものを対象にする学問です。そしてそうした哲学の上に近代思想が打ち立てられました。そのためヨーロッパ人は自分たちの考えや文化こそが、最も歴史的に優れていて世界へ敷衍するものだと確信しました。自分たちの世界こそ普遍的なので、実際に世界中へと行き渡って当然なわけですね。

 

そしてそれが嘘と言えないほどにヨーロッパは近代世界で成功しました。地球規模で植民地を持ち合い、科学技術に対抗できるものはなく、民主主義や資本主義に並ぶ体制もありませんでした。そのためヨーロッパ的自尊心は事実としても裏書きされたかのように思われたのです。

 

ヨーロッパが自らを語ること=普遍性の自覚

こうした中でヨーロッパ人が自分たちのことを書いたとします。それはもしかしたらヨーロッパという限られた範囲での特殊な事例であるのかもしれません。しかしヨーロッパ人はそうした特殊性を感じることはありません。なぜなら自分たちの価値観こそ世界化したものだからです。

 

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いわば自分たちのことを語ることは、そのまま普遍的な問題を語ることになるのです。哲学を語ればそれはヨーロッパの哲学ではなく、普遍的な哲学です。資本主義について分析してもそれはヨーロッパにおける資本主義ではなく、人類に現れてきたものとしての資本主義です。民主主義もまた、ヨーロッパが選ぶだけではなく人類が持つべき1番マシな政治体制としてあります。それらはもしかしたらヨーロッパという限られた文化圏での出来事でしかないのかもしれません。しかしこうしたものによってヨーロッパは事実上思想的には世界支配してしまいました。哲学も資本主義も民主主義もシステムや制度であると同時に思想なのです。それは加藤周一がケンタッキーはアメリカの思想である(つまり安い、早い、どこでもある、という価値観そのものの具象化)と述べたように、ヨーロッパ産の文物は世界に行き渡ったヨーロッパ的思想になるのです。だとすればヨーロッパ的なものがもしかしたら地域限定的なものであったとしても、ヨーロッパ人はそれらすべてを普遍的な問題として捉えることが出来るのです。

 

つまりヨーロッパは世界の中心なのです。世界の中心にいる者たちは、自らのことを語ることは同時に世界を語ることに連なるのです。

 

日本が自らを語ること=普遍性ではない特殊性の自覚 非ヨーロッパ圏という桎梏

一方日本ではどうでしょうか。日本においても必ず自分たちの経緯や歴史から導き出される考えというものがあります。たとえば資本主義がヨーロッパの歴史から必然として現れてきたとするならば、日本においてもどのようにして資本主義が成り立ち得なかったか、もしくは移植可能であったのか、また民主主義がいかに機能し難いのか、哲学のような根本的思考がなぜ存在しないのか、そうしたことも考えられるかと思います。

 

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この場合、自分たちの文化圏において、自分たちのことを考えるという点においてはヨーロッパも日本も変わりません。それどころか世界中のどの文化圏においても同じだと思います。しかしヨーロッパは中心であるため自分たちで考えたものが即普遍的で世界的であると考えられるのに対し、日本(もしくは類する非ヨーロッパ圏の国)では自分たちの考えを普遍的なものであるとは考えられません。ヨーロッパが中心であるとするならば、日本は周縁になるのです。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/16/193003

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/02/193037

 

そしてそうした周縁的存在として日本が自分たちのことを考えたならば、それは普遍的ではない特殊的なものである、という風に考えざるを得なくなってしまいます。そのため日本ではいくら普遍的に考えようとしても特殊的にしか考えられないのです(です、って、私の勝手な解釈かもしれないけど)。

 

自らを語ること 〜普遍的であれ特殊的であれ、自らのみを考えている

またヨーロッパが中心であり、日本が周縁であるとしても、そこで考えられたものが普遍的であるか特殊的であるか関係なく、それは自分たちのことを考えている、ということも重要です。つまりどちらにせよ自己中心的に考えたものの結果なのですね。ですからヨーロッパの普遍性は自分たちの真理を未だ目覚めぬ者たちへと覚醒させてやろうと侵略を平気で出来てしまいますし、戦後の日本でも日本特殊論によって内向きの思考をしてしまう結果外国というものが見えなくなってしまうわけです。どちらも同じく、自分のことを考えた結果なのだと私には思われます。ですから日本人特別論が外国人差別に繋がっているのでは、という疑問はその通りであると思われます。

 

特殊的自己中心主義の超克 〜理念、他者、多文化/多民族

ではこうした差別をどう乗り越えるか、ということですが、ひとつはヨーロッパ的であれ日本的であれ、自分たち(〇〇人)を越えた人間や人類といった普遍的な理念を打ち立て自らのものとすることです。ですがこの場合どうしてもヨーロッパ産の思想を応用するしか近道はありませんので、手抜きなしの近代化を目指す、という丸山眞男たちの戦後進歩派の判断が正しいことになります。これは今もって達成されていない問題であり、さらにやり続けるしかないかもしれません(またこうした普遍性は世界宗教とも密接に関わってくる問題かとも思われます)。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/28/193010

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/26/193016

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/27/193013

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/29/193010

 

そしてこの文脈において空気を読むことの問題が現れてきます。即ち合理的な判断をすべき近代的価値観ではなく、非合理的な判断(空気での決定)でしか社会が動かないのでは、その社会は未だ近代化がなされていないと考えられるからです。ウェーバーは近代を脱呪術化された世界だと規定しました。つまり呪術なんていう非合理的なもので判断したり動いたりしないで、合理的な判断によって決定していくのが近代というものの条件だ、というわけです。これを空気で決定してしまうのでは、呪術によって決定するような前近代的な社会とそう変わらないものになってしまう、というふうに考えることも出来ます。そのためもし今でも日本が空気によってしか決定していないのたとすれば、日本は近代社会ではないことになります(そしてどうもここにはアジア的特徴というものがあるらしく、他の国でも似たようなことがあるのかもしれません)。

 

 

もうひとつは柄谷行人が考えたような、他者というものの考え方を踏まえてみることです。柄谷行人のいう他者とは、自分とは異なる規則を持った存在のことです。そのため私と他者との間には絶えざる教えあう関係が生じる、と考えられます。考え方の規則が違うから、逐一確認しあいながらコミュニケーションし続けるわけです。この他者性を欠いて分かり合ってしまうのが空気を読むことだとすれば、他者という考え方は空気を読むことへの批判でもあります。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/04/153050

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/05/153003

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/06/153057

 

あとひとつここで考えられるとしたら、それは多様性を認めることです。多文化や多民族を抱え込みながら社会を作り上げていくわけです。しかしこれを行うには相当の社会的な底力が必要で、未だ空気を読んで社会の意思決定をされてしまう日本では難しい、と見なされている様子があります。なんでもフランスでは元々のフランス人と、季節労働者としてフランスにいる人たちと、旧植民地出身の人たちとがちょうど三等分くらいになるんだそうです(20年くらい前の本に書いてあったので今はわかりませんけど)。しかしヨーロッパの中心的な国であるフランスでも、こうした多民族的国家はうまくいっていないようです。そもそも戦前は植民地をどこでも持っていたので多民族国家が結構多かったのだそうですが、結局それが嫌で民族ごとに独立しようとしたので、この考え方は考え方としては素晴らしいかと思いますが、実際に行うには相当の難業である様子です(ちなみに日本でも戦前は満州がありましたので、日本は島国で海から人が渡った多民族国家である、という解釈だったようなことをどこかで読んだ覚えがあります。戦後と真逆ですね)。

 

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外国人差別をせずに受け入れるとしても、こうした状態のまま受け入れては困ってしまいますので、自分たちとは違う存在をどうやって受け入れていくか、ということを考えた時、どうしても空気を読むという問題が出てきてしまうのだと思います。外国人は空気を読むなんてこと知りませんから、空気を読むことによって意思決定するのでは外国人は社会的な意思決定からこぼれ落ちてしまいます。そうなると外国人は自分たちと違う、ということで敵対的他者とでもいえるようなものになってしまいかねません。今でも精神病の病名がネット上で相手を侮蔑するため隠語と化しています。これは精神病を正常な精神と異なると境界線を引いて、自分たちと違うということで平気で差別しているわけです。しかし精神に正常と異常があるのではなく、社会状況と一致したものが正常とみなされているとすれば、同じ差別状況は精神病でも外国人でも、他のどこであろうと起こり得ます。そしてその境界線が自分たちと違う、ということであれば、非論理的で感覚的な一体感、すなち空気によってその対象が選ばれるとも考えることが出来ます。

 

それを避けるためには空気を読んで意思決定するのではなく、他者へのコミュニケーションと合理性によるしかないだろう、となるのですが、残念ながら空気を読む方が決定力が強いように思われるわけですね。

 

こうして考えてみますと、空気を読む、という紋切り型になって誰もが口をついていってしまう言葉にも中々やっかいで様々な問題がついて回っているのがわかるような気がしますね。

 

気になったら読んで欲しい本

ヘーゲル『歴史哲学講義』 

ヘーゲルは歴史を哲学しましたが、かなりとんでもない考えをしました。人類の歴史はそれぞれの文化圏の持つ思想の戦いの歴史であり、最終的にヨーロッパ思想(と、その完成者であると自認する我がヘーゲル哲学)へと至るものであった、というものです。そしてヨーロッパ的普遍性が世界な行き渡ることによって歴史は完成されるわけですね。ヨーロッパ中心主義のよくわかる歴史哲学です。

ちなみにこの翻訳はとても読みやすいと思います。

ヴァレリー『精神の危機』 

これは戦後ヨーロッパの凋落が目に見え出した時、逆説的にヨーロッパを評価した評論です。すなわちヨーロッパは国際社会の中で勢力を失うかもしれないが、世界中がヨーロッパ価値観のもと動かざるをえないのは、ヨーロッパの勝利である、ということです。中々ひねったやり方ですね。

私が読んだ時はまだ文庫で出てなかったので世界の名著で読みました。けどよくわからず、一緒に入ってたアランの方が面白かったです。

木田元『反哲学史』 

ヨーロッパの哲学が普遍的なものではなく、ヨーロッパという限られた地域で起こった特殊な思考形式である、と述べてある本。だと思います。私は木田元の本を読んで教えてもらったのですが、どの本だったか覚えていません。哲学がなんなのかわからない頃に図書館で読んだものですから確かめようもなく、おそらくこれだろう、という推測で載せておきます。

木田元は日本有数のハイデガー読み(福田和也談)らしいのですが、おそらくハイデガーの考えにもこうした観点があるのだと思います。私にはハイデガーはちんぷんかんぷんです。わからん。

柄谷行人『隠喩としての建築』 

デリダという哲学者がヨーロッパの思考法は二項対立である、といっているらしく、そうした二項対立を柄谷行人がこの本の中で図式化してくれていたと思います。それは西洋と東洋や中心と周縁といったものだけでなく、右左とか男女とかも含めて二つにわけて考えるクセがヨーロッパにはある、ということらしいです。そして一方はもう一方に優位に立ち従属させている、というわけです。二項対立にすることで相手を支配してしまえるわけですね。

ただこの本じゃなかったかもしれません。柄谷行人がどこかで書いていたのは確かなのですが、私の記憶ではこの本のような覚えがあります(違ったら申し訳ない)。

サイード『オリエンタリズム』 

サイードはこうした二項対立のうち西洋と東洋といったものを考えました。それは西洋とは東洋を特殊なものとみなすことによって、それに対し自分たちは普遍的である、と捉えることが可能になる、というものです。まさになぜ非ヨーロッパ圏で普遍性が成り立たず特殊的としてしか考えられないかがこれでわかります。ヨーロッパは東洋を、オリエンタルなもの、として異国情緒に浸らせることによって奇異なものとして東洋を規定してしまうわけです。そしてそうした奇異なるものとしての東洋を判断している西洋は、奇異ではないため正統性を持つように錯覚させることが出来るわけです。

こうしたオリエンタリズムの考え方を転用すれば、なぜ排外的に他国を中傷したり外国人を差別したりするかがわかりますね。そうすることによって中傷したり差別したりする人たちは、そうでない者としてまとまることが出来るからです。かつてはそれを国内的に差別対象を生み出して社会の安定をはかっていたのですが、差別への高い意識によってあからさまには差別されなくなりました。その代わりに国外へと向けられ、政府もそうした感情を利用しているともいえます。

吉本隆明『共同幻想論』 

そして吉本隆明はそうした余所者への恐怖によって共同体内部の結束を固めていた、というようなことを多分この本で書きました。なんでそんな言い方なのかといえば、読んでもさっぱりわからないからです。これは私だけでなく、錚々たる知識人が読んでもわからんと述べています。そのためとにかく難しいです。私にはわかりませんでした。なんといいますか、難しさのタイプが違うんだと思います。

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 

丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 

空気という概念を取り出した戦後思想の出発点。説明は前回までに書きましたので、そちらをご覧になってくださると幸いです。

ウェーバー『職業としての学問』 

ウェーバーが脱呪術化についてどこで書いていたのか覚えていませんが、どうやらこの本にも書いてあるようです。これは講演ですので比較的読みやすく短いものです。随分前に読んだので忘れてしまいました(こんなんばっかり)。

柄谷行人『探究』 

他者についてはこの本に書いてあります。ただ他者についてだけ書いているのではなく、様々なことを考えながら他者というものへと焦点が絞られていくようなものかと思います。とても面白いです。

吉本隆明,糸井重里『悪人正機』 

フランスが人口比率が3分の1ずつになっている、という話はこの本で読んだんだったかな。これは晩年の吉本隆明の座談なんでとても読みやすいです。インタビューだとわかりやすいんですけど、書くと難しいのが吉本隆明です。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

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