前回のお話
ヘーゲルの主人と奴隷とマルクスの階級闘争の歴史
マルクスの歴史観に唯物史観と階級闘争の歴史というものがあるとお話してみたのですが、唯物史観の方はヘーゲルの観念論的歴史哲学に対抗するもののようであったのに対して、階級闘争の歴史はむしろヘーゲルの歴史観をそのまま引き継いだようなものになっているかもしれません。
ヘーゲルの主人と奴隷
というのもヘーゲルには主人と奴隷という有名なものがあります。『精神現象学』の中に書いてある一節でありますが、簡単に言えば次のようなものです。
【ヘーゲル『精神現象学』】
(この本がそうなのですが、今回は平凡社ライブラリー版にしてみました。昔からある翻訳です)
主人というものは何でも持っていて、奴隷に命令させて言うことを聞かせる。その意味で主人は奴隷に対して支配者なのであるが、実際になにかをするのは奴隷自身である。そのため主人というのはなにも自分一人ですることも出来ない。しかし奴隷は命令されてやらされている分、なんでも自分一人でやることが出来る。そのため主人というのは一見奴隷に命令して支配者として振る舞っているが、実のところ主人は奴隷に依存しているだけでしかない。結果実態を見れば奴隷の方こそ主人に対する支配者である。
まぁこんな感じです。
主人と奴隷の階級闘争
これをマルクスの階級闘争の歴史に当てはめると、支配されている階級=奴隷であり、支配している階級=主人ということになります。奴隷は生産者であり、いわば農家や職人です。主人は無生産者であり、いわば貴族、政治家、宗教家、軍人などです。これが抑圧されている階級が支配している階級に打ち勝っていく歴史観というものは、つまるところヘーゲルの主人と奴隷の関係を歴史に当てはめたものなのかもしれません(もしかしたら違うかもしれませんから、よければどこかで専門家の書いたものでも読んでみてくださいね)。
【マルクス『共産党宣言』】
(階級闘争についてのマルクスの本といえばこれでしょうか。同じライブラリー版にしてみました。ライブラリー版は共産党じゃなくて共産主義者となっています)
共通する目的のある歴史
そしてまたマルクスはヘーゲルを越えてヘーゲルの歴史観を応用しているところもあるかと思います。それはヘーゲルの歴史哲学は確かに目的論で自分たちヨーロッパに集約されてくるものとして考えましたが、それは現在の自分自身、ヘーゲル自身にたどり着く歴史観でした。つまり現在で終わりなわけです。しかしマルクスはその終わりの地点を未来に置きました。それが共産主義革命というものですが、しかしそれは本当に起こるのかどうかはわかりません。そのため延々期待だけが持たれて現在というものは変わらないままであるかもしれません。少なくともマルクスが共産主義革命について書いてから今日まで、資本主義体制は変わることなく続いています。
なんだかマルクスの歴史観はヘーゲルを批判したところは正しく、継承したところが間違っていたのかなぁ、なんて思ってみたりもしてきたりするのでした。
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/304/2021.02.16
お話その303(No.0303)