前回のお話
キルケゴールによるヘーゲルへの疑問と実存主義の原点
ニーチェはショーペンハウアーの愛読者だったそうですが、そのため実存主義を遡っていくとハイデガーからニーチェ、ショーペンハウアーへと至る流れがあるようです。
それともう1人キルケゴールという大物がいます。私はキルケゴール読んでなくてよく知らないのですが、ちょっとだけついでなので知らないなりに無理して書いてみようかと思います。
ヘーゲルの聴講者キルケゴール
ショーペンハウアーはヘーゲルと同時代にすでに哲学者でした。そのためヘーゲルをライバル視し講義で対決するような真似もしました。ショーペンハウアーにはショーペンハウアーの哲学というものがあって、それでヘーゲルの哲学が認められなくて許せなくなってしまったわけですね(多分)。
それに対してキルケゴールはまだその当時は哲学者ではありませんでした。しかしヘーゲルとの大きな接点はありました。それはどこでえたか、というと、キルケゴールはヘーゲルの講義を受けていた学生だったのです。
ヘーゲルに疑問を抱いた哲学者キルケゴール
そのためキルケゴールはヘーゲル哲学をヘーゲル自身の口から聞いて学んだのですが、そのままヘーゲル哲学に染まったヘーゲル主義者にはなりませんでした。ヘーゲルの哲学の壮大さに衝撃を受けたらしいのですが(これも多分)、しかしその大体系に対してこの私は一体どこに存在するのか、というような疑問を持ったそうです(と、どこかで読んだ覚えが)。
【ヘーゲル『精神現象学』『エンチュクロペディー』】
(ヘーゲルの大体系がよくわかる本。読むの大変。読んだら偉い)
そのためキルケゴールはある意味ではヘーゲル批判とも言えるような哲学を行ったそうです。ヘーゲルには弁証法というものがありますが、弁証法というものはAとBという対立する意見があったならば、それを乗り越えてCという新しい意見を生む、というような考え方です。カントがAとBという意見があった時、経験的裏づけがなければどちらも正しいと主張出来てすれ違ったままになる、という考え方を批判して乗り越えようとしたもの、と考えることが出来ます。
あれかこれか、という人間の選択
それに対してキルケゴールは、ヘーゲルはAとBという、あれもこれも、を手に入れようとしている、と捉え、そうではなく、あれかこれか、という選択こそが人間の本質的な在り方である、と考えたようです(これまた多分)。これもまたヘーゲルを批判して行き過ぎを止めようとしたものかもしれませんね。
【キルケゴール『あれか、これか』】
(多分この本がそうなのかな、と思うのですが、私はキルケゴールちゃんと読んでないのでわかりません。よければ読んで確かめてみてください)
そしてこうしたキルケゴールの考え方がヘーゲルの壮大な大体系とは異なる個人としての私をもう一度考えるきっかけとなってハイデガーなんかの実存主義にまでいきつくのだそうです。
哲学にも歴史ありですねぇ。
次回のお話
お話その295(No.0295)