前回のお話
現象学と普遍的なものとしての人間の体験
ちょっと不思議に聞こえる現象学
フッサールの現象学は大変重要なもので、20世紀に行き詰まった問題は現象学によってしか解けない、なんて悲壮的に叫ばれたりもします。しかしその現象学もとても難しい立場から出発されていたようで、あちこちからフッサール先生は批判の集中砲火を受けたそうです。革命的なことを考えた人は大変ですね。
【竹田青嗣『現象学入門』】
(現代の問題の行き詰まりはフッサールの現象学にしか解けない、というようなことはこの本に書いてあったような気がします。面白くて読みやすいのでよければ読んでみてくださいね)
どんなふうに批判されたのかは私はよく知りませんが、たしかに現象学の考え方をちょっと聞いてみても、それのどこが偉いのか、なんてよくわからないままに首をかしげてしまったりもしそうです。
人間にとって普遍的な体験というもの
そもそも体験なんてものを学問の基礎にできるのかな、というのが不思議に思えてきますね。数学はそりゃ普遍的なものですから、それを基礎にすえるのはわからないでもありません。でも体験って、そんなもの人によって違ったりしないでしょうか。少し前にここで書いたりもしましたが、ケーキ一個見たっておいしいと思うか投げたいと思うか、その人のその時々によって変わっていってしまいそうです。そのようなものが普遍的な学問の基礎となるものでしょうか。
【フッサール『イデーン』】
(フッサール先生の書いた現象学の大古典。でも体験の話はどこに書いてあったかなぁ…もしかしたら違う本だったかもしれません)
それに対してはフッサール先生、面白い回答をしてくれています。それは人間にとって体験というものは誰しも持っているものである。体験を有していない人間などいない。そのため人間にとって体験というものは普遍的なものである。そのため体験を基礎とした学問が樹立される必要は十分にある。とまぁ、こんな感じです。
なるほど、それはその通りだな、と思います。たしかにケーキを見ておいしそうとも投げてみたいとも思うのは、どちらも体験であるという点においては同じです。そしてまたケーキを前にしてなにかを思い浮かばせることも、同じように誰しも起こってくるでしょう。そこにそれぞれの人に相違があって起こってくるであろう体験も、フッサールが方法として考えたエポケー=判断停止することによって、もともとの体験となるもののみを取り出そうとすることによってひとつの基礎として置くことを可能にするわけですね。
数学に対するものとしての体験
これが数学化された世界に対して非常に重要な役割を果たしていくであろうということは、なんとなく想像できそうです。なにせ私たちの周りの世界を見回してみると、言われた通り数や量ではかられてばかりな気もしますものね。20世紀初頭ならともかく、今なんてビッグデータなんて言われて統計学によって支配されているような世界です(言いすぎ?)。
【クライン『数学の文化史』】
(数学がいかに私たちの生活の中で意識されないところにまで影響してるのか、この本読めば少しわかるかもしれません)
そんな世界に対抗する点も含めて、体験というものを土台とした学問を現象学としてフッサール先生は生み出そうとしたそうです。大変ですね。
次回のお話
お話その277(No.0277)