前回のお話
人間と自然を統一した機械論的世界と数学化
自然と身体と機械論的世界
デカルトによる身体と精神の分離=心身二元論は同時に数字的世界の一種でもあります。というのも身体が機械論的に捉えられるということは、身体を数字に置き換えて捉えることも可能になってくるということでもあるからですね。
【デカルト『省察』『哲学原理』】
自然世界が機械論的な世界観だとすれば、自然界と身体は同じ機械論的世界の仲間です。そして自然世界は物理学によって数学的に捉えることが可能なわけですから、当然人間の身体というものも数字によって捉えることが可能だと考えることが出来ます。
【ラ・メトリ『人間機械論』】
(このようにちゃんとデカルトの考えを受けてこんな本も書かれました。しかし今読むと当たり前のことのようにも読めてしまいます。ただそれが当時としてはとても新しい考え方だったわけですね)
人間の数学化
これは別におかしなことでもありませんね。私たちも病院に行くと検査されてそれぞれの数値を言い渡されたりします。ちょっと血圧が高いですね、体脂肪が多めですから減らしましょう、心拍数はいくつです、肝臓の数値がかんばしくありません…病気というものは、こうした数値による平常値からの逸脱とすら言えそうな気がしてきます。
つまりこうした形で私たちの身体というものは完全に数学的に分析される対象になってしまっているわけです。こうして考えてみますと、案外どこもかしこも数字なんだってことに気づかされますね。
分解的理解の克服としての現象学
と同時に、これはデカルト的分析の方法によって分解された理解の方法でもあります。以前waka-rukana.comでも書いたように、デカルトはあらゆるものを疑った際にどんなことでも細かく分解して簡単なものから考えていけばなんでも答えられる、と考えました。これは考える方法というだけでなく、根本的な思考法でもあります。それは対象を総合的にではなく分解的に捉える、全体ではなく部分で捉えるというものです。
そのため身体も臓器のひとつひとつのように部分で捉えて人体という全体で捉えるという視点においてヨーロッパ型思考はちょっと弱いところがあります。そしてまたデカルトの心身二元論のように身体を捉えて精神との関わりを切り離してしまう面もなきにしもあらずでした。
【フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』】
(フッサールはこの本の中でヨーロッパの学問が数学一辺倒になっていることを問題としています。とても面白い本です)
そうした問題を乗り越えるためのものとしてもフッサールの現象学というものは期待され、総合的・全体的な視野で対象を捉えること、数学的にだけ偏ってしまうヨーロッパ型学問からの脱却を目指して行われる真摯な、時代的な困難を問うた実践的な哲学思考としてあったと考えることも出来るのでした。
次回のお話
お話その281(No.0281)