前回のお話
矛盾とは認識できない領域への思考である哲学や思想へといざなう日常的な契機となる ~論理的解決では果たされず残されるままの矛盾 - 日々是〆〆吟味
経験世界の科学と思考能力の向かい先を見る哲学者
理解出来る領域としての経験世界
ところで私たちにわかる限りの領域とはどのような世界でしょうか。それはカント大先生たちいわく、経験世界での事柄だ、というわけです。
どういうことかといいますと、私たちが生まれてから生きている間に、目の前に石ころとかお花とかあったりしますね。それは目の前にあるから石ころやお花をこの私が知ることが出来るわけです。石ころもお花も生まれる前から知るわけではありませんね。生まれてきて、生きている間に、目の前で見るような形で知ることになります。これを経験的に知るというふうに説明するわけであり(多分。正確にはどう説明するのかは私にはわからない)、その経験的に知ることが出来る範囲においてのみ人間の思考能力は理解することができ問題も解決することが出来る、というわけです。
【ロック『人間知性論』】
(人間が経験から物事を知る、ということはイギリス経験論の開祖であるロック先生の本をご覧ください。難しいので私には十分に理解も説明も出来てませんが、とりあえず直接読むことは出来ますので、よければ読んでみてくださいね)
経験世界に限定して考える科学
ここからカント大先生は科学を基礎づけた哲学者だ、というふうにも言われることになります。でもこんなこと今の私たちからすれば当たり前のように思えてきますよね。物理法則や人体を解明しようとする人が科学者なのはなんとなくそうだろうと思ってしまいますが、幽霊や超能力を研究してると言うと、え、と思わず言ってしまいそうな気もしてしまいます。そう感じてしまうくらいに経験世界の理解っていうのは当たり前になっているのだと思います(違うかなぁ)。
【カント『純粋理性批判』】
(カントが経験論から批判哲学になってどう科学を基礎づけたかは、この本をご覧ください。ただくそ難しいので私には説明出来ません。ははは…)
哲学者と科学の微妙な関係 〜経験世界以外も人間は考える
しかしどちらかというと哲学者はこうした経験世界だけを理解の対象とする科学に対しては懐疑的な態度をとっているように思います。カントのあとに出てきたヘーゲルという人は、科学ってのはある現象から一定の法則を引き出したもんなだけだ(というような感じだったと思う)、といって精神の理解の段階としてはさほど高いものとしては設定しておりません。またフッサールという人はヨーロッパの学問があまりに数学化されているのを問題として、人間の持つ体験そのものを学問化しようとして現象学というものを構想しました。そしてフッサールの弟子でもあった20世最大の哲学者と言われるハイデガーは、科学技術こそ人間を滅ぼす、と言ったそうです(直接には知らない。筒井康隆がそう書いてたのを読んだことがある)。
【ヘーゲル『精神現象学』,フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』,ハイデガー『存在と時間』】
(それぞれの順番に時代が新しくなっていきますが、ヘーゲルは精神現象学の中で科学の法則を力学の項で説明されていたかと思います。フッサールの本はのちに様々な領域で応用されていくようになり、現代の危機を解決するのはフッサールの現象学しかない、なんて読んだ覚えもあります。本当なのかな? ハイデガーは私はこの本しか知りません。廃業された創文社から全集が刊行中でしたが、これからは東京大学出版会が継続して出してくれるそうです。終わりまでやってくれるかな…)
これはどう考えればいいのかは色々ありえそうですが、一応ここで述べてみるとすれば、科学はカントが理解可能とした経験世界に限定することで絶大な効果を発揮しましたが、しかしカントが同時に述べたような解決不可能な問題であっても人(=理性)は考えているように出来てる、という立場を切り捨ててしまったものだと言えなくもない、ということでしょうか。そして哲学者たちはそうした難問(アポリア)にこそ向かうものが人間(もしくは人間理性?)であるので、経験世界に限った理解の在り方に異議を申し立てているのかもしれませんね。
【アリストテレス『形而上学』】
(アリストテレスは哲学を整理しようとしてかなりバラバラのままのちの時代に放り出されてしまった観もなきにしもあらずなのですが、この中で哲学の難問=アポリアというものもいくつか整理して出しています。そして哲学者はこうした問題を考えますが、科学者は切り離している、と一応区別出来るかもしれません。しかし物理学者も突き詰めるとこの難問のひとつに当たってしまうため、最終的には似たような問題を別の角度から考えていくしかないのかもしれませんね)
お話その245(No.0245)