前回のお話
人間が経験することによって認識が可能な科学的に存在しうる世界と、経験を超えた領域へ哲学的思考によって捉えられる世界の違いによる、科学者と哲学者の相違 - 日々是〆〆吟味
辛い体験と論理的な説明や解決というもののズレと、論理で覆い尽くせない問題を論理によってしか考えることのできない人間の思考
考えてもわからない問題の悩み
しかしどうして人間は考えてもわからないような問題も考えてしまうのでしょうか。前々回好きな人の気持ちはわからない、なんて書いてみたりもしましたが、そもそも人間の思考能力そのものにこうした限界と問題点があるようです。
論理的に正しいとも間違っているとも正しく説明出来る論理というもの
前にも書いたかもしれませんが、カント大先生は人間の論理というものがある問題に対して正しいとも間違っているともどちらも論理的に正しいように説明出来るということを示しました。そして論理だけでしか捉えられないような問題は最終的にわからなくなるので、そうした問いはやめて経験的な領域における問題だけを考えるべきだ、というわけで科学を基礎づけることになりました。ちなみに論理だけでしか考えられないようなものとして想定されるものは神についてなどです。キリスト教が主流となってからヨーロッパは千年くらいずっとそのことについて考えていたのですが、カントはその不可能性を宣言してしまったわけですね。
【カント『純粋理性批判』『判断力批判』,アンセルムス『モノロギオン』】
(カントはこの本なんですけど、それ以前にアンセルムスという偉い人がいまして、この方は論理的に神の存在証明をしました。それをカントは自分の立場から批判した側面もあるわけですね。でもカントは無神論者ではなく、次の『判断力批判』で美学の側面から神を呼び起こしていたりもします。東洋人には中々わからない、ヨーロッパ世界における神の問題の根深さを感じさせますね。ちなみにこちらの世界の大思想に入っているカントには有名な三批判書がすべて入っていてお得です)
辛いこととわからないこと
さて、神についてというと不信心な日本人である私たちにはちとピンとこないところがあります。しかし辛いことがあったり耐えられないようなことがあったりすると、なぜそんなことが起こったのか、ということはどうしても考えてしまうかもしれません。好きな人の気持ちがわからない、というのは、そうした問題の卑近な例なわけですね。
何故娘は死んだか、という苦悩と思索
しかし辛いはこともこうしたかわいらしいものだけではありません。いつだったか娘を亡くされた作家のコラムを新聞で読んだことがありました。その方はとても辛かったらしく、なぜ娘が死ななければならなかったのか、ということをずっと心に引っかかったままのようでした。そしてヨブ記やそれに関する様々な思想家の解釈について書かれた本をたくさん読むのですが、なにひとつ納得いかないようです。
【『ヨブ記』,内村鑑三『ヨブ記講演』】
(ヨブ記とヨブ記に関する解釈としてその作家の方が載せておられたのは内村鑑三のものだったかと思います。他にも何人か載せてらしたのですが、残念ながら私が覚えてるのはひとりだけでした)
それは大変な体験ですから簡単に言葉にして終えられるものではないはずです。また誰かに納得させてもらえるようなことでもないかと思います。しかしだからといって大変な体験もそんなこともあるだろう、と他人事のようにすましておけるわけではありません。我が事は他人事とは決定的に違うのです。それはその体験が常に自分の中で再生産され反復されるからであって、他人はそんなもの感じることがないので単純に論理化してすませてしまえます。逆に言えば他人の辛い体験は呑み込まれてしまうと自分の中にまで同じような感覚が訪れてしまうので拒絶しているのかもしれません。
論理と体験
そうなると論理でどうにかなるような問題ではなくなるのですが、しかし人間が考える際にはどうしても論理的になるしか方法はありません。なのに論理はそうした自分自身の体験に適切な形を与えてくれません。むしろ論理や言葉というものは、常に体験からこぼれ落ちていくように感じる可能性もあります。
しかしさらにまた逆に、そのような形にできないような体験も、どのように表現できるかといえば論理的にであり言葉を通してということになってしまいます。ここにおいて論理/言葉というものと、体験というものの解離が生まれてしまいます。
そしてきっとこの解離を埋めていくための論理的な戦いが思想なのではないか、と思ったりもするのでした。
次回のお話
論理とは異なる具体的で複雑な個人的体験と、他社理解の際に行われる単純化した論理によって押し付けられる非寛容なエゴイズム - 日々是〆〆吟味
お話その246(No.0246)