マスメディアの機能としての人々や国民の統合 〜メディアは見知らぬ人々をまとめあげ、もし拒絶したら孤立する?
マスメディアと大衆化
近代以降の人間はメディア抜きにしては成り立たず、また大衆というものがメディア(それもマスメディア/マスコミュニケーション)と切り離せない存在と考えてみるならば、私たちはみな大衆として存在を規定されている、と言えるような気がしてきました(私の考えだけなのかもしれないけど)。では大衆から逃れるとして、メディアから逃れきることが出来るのか、とこれまた考えてみるとそれも難しそうです。
前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/02/14/200010
メディアから逃れることと集合表象
メディアから逃れられるか、というだけではなく、デュルケーム的な人間観からいっても問題があるかもしれません。デュルケームは人間の認識は集合表象から与えられる、と考え(多分)、しかもその集合表象から引き剥がされるとアノミーになる(これまた多分)、とも考えました。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/02/193043
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/03/193022
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/31/180014
【デュルケーム『宗教生活の原初形態』『自殺論』】
(上の2冊が集合表象について、下の一冊がアノミーについて書いてある本です)
こうした集合表象がどのように形成されるのかは私にはよくわからないままなのですが(書いてあっても読み飛ばしてるか理解していないかなのだろう)、とりあえずメディアによって形成されるとここでは考えてみましょう。少なくとも話が通じるためには同じ情報を共有している方が都合がいいですね。そして広く多くの人に共有されるには情報はTVなどマスメディアによって伝えられる情報の方がこれまた都合がいいかと思います。
マスメディアと話題のタネ
そういえば社会学者の宮台真司は子供の頃、父親の仕事の都合で転校を繰り返したそうです。どこへ行っても新参者でコミュニケーションを一からやり直さなければならなかったそうですが、その時役に立ったのがTV番組、それも確かアニメだったと言っていたような覚えがあります。どの地方、どの学校に行っても教室の中では同じ番組、同じアニメが話題になっていたそうです。そのためそうしたTVを通した話題を使って新しい交友関係を築いていったというのですが、これは子供世界でひとつの集合表象が形成されている、と考えてみることも出来るかもしれません。それも具体的な人間関係(特定の学校のひとつの教室内だけ)というわけでなく、その番組をやっているメディア圏内、すなわちTV放送圏内である全国区において共有されている強力な集合表象なわけですね。
【宮台真司『14歳からの社会学』】
(う〜ん、宮台真司がこの体験をどこで書いていたか覚えていません。結構あちこちで読んだ覚えがありますので、14歳と銘打たれたこの本を挙げてみることにしました。もしかしたら違う本に載っていたかもしれません)
メディア/集合表象の拒絶→アノミー化の危険
もしメディアによって集合表象が形成されているとしたら、そのメディアがマス(=大衆)メディアだからといって大衆化から逃れるために拒絶してしまうと、下手をすればアノミーになってしまうかもしれません。自分自身がマスメディアを遮断したとして、周りの人がそのままマスメディアの支配下にあれば、そうした個々の人々の間でのコミュニケーション(マスコミュニケーションではなく、直接のやりとりとしてのコミュニケーション)が困難になってしまいます。宮台真司がTV番組の話題で新しい学校の教室で孤立することをまぬがれたのだとしたら、TVを代表とするようなマスメディアを遮断してしまうことによって、その人は周りの人とのコミュニケーションからも遮断されてしまうかもしれません。これは学校内でも人間関係が自然とグループ化されていくのを見れば納得いくような気もします。野球好きとアニメ好きとロック好きでは、他に共通する話題でもなければ同好の士と同じようにコミュニケーションすることは難しいかもしれませんしね。ただこれはまた別のコミュニケーション自体の問題が含まれてくるのでここでは置いておくことにしましょう。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/05/30/153053
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/05/31/153055
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/03/153012
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/04/153050
(以前コミュニケーションについてちょっと考えてみたものがありましたので、貼っておきます)
メディアによる見知らぬ者同士の統合
つまり、こうして考えてみるとマスメディアは大衆を相手とした大規模なメディアであると同時に、まったく無関係の人間同士を同じ話題でまとめあげることが可能な、強力なコミュニケーションツールでもあるわけです。これこそが近代化によって共同体から引き剥がされ都市へと移動した人々を結びつける役割を果たしている、とも言える、のかもしれません。それを拒絶してしまうのはアノミーになるだけではなく、大衆と同じく近代社会の避けられない歴史的帰結のひとつなのかもしれませんね。
【ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』】
(本来まったく別地方の人間を、国民としてまとめあげるために文学がいかに有効だったか、ということが書いてある本。だったと思うんですけど、昔読んでよくわかりませんでした。一応よく言われていることを書いておきますと、こうした無関係な人間同士をひとつの国民、つまり俺たちって日本人だよな、と思わせるものとして、その日本人らしさというものを文学が描き、それを国民単位で受け入れることによって国民=我々日本人、という考え方が生まれてくる、というものです。今でも日本人は礼儀正しくおくゆかしい、みたいなことが言われますが、そうした人物像=キャラクター像を文学が描くことによって、それを自分たちの姿として読み手の側からも自主的にイメージして自己規定していく、というもの、とでも言いましょうか。私の拙い説明ではこんな程度しか出来ませんが、興味ありましたらぜひ読んでみてくださいね)
次回のお話
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お話その175(No.0175)