教わることと伝言ゲーム性 〜伝えられるものの中身は一緒のはずなのに、なんで差が出るの⁈
1つの考えがある人からある人へと移る際、その考えが変わってしまっているということは、日常では当たり前にあることです。
伝言ゲームと意見の変質
TV番組を思い浮かべてみましょう。最近はあまりやらないかもしれませんが、昔は伝言ゲームなんていうのがバラエティ番組の定番の1つでした。そこでは最初に出されたお題を見た人がジェスチャーやイラストだけで次の人へと伝えていき、それを続けていくうちにお題とは全然違うものへと変貌していく、そして最後の人が最初のお題となるものを答えれたら正解、というゲームです。その変化していくさまをお茶の間の私たちが面白く見る、というわけですね。
このゲームの肝は直接お題を次の人に教えてはいけない、という点です。ジェスチャーやイラストといった、その人の技術や感性によって伝達内容が制限されてしまう方法を使って伝言していくので、伝える途中で齟齬やズレが生じるようになっています。だから見ている人は面白いのですが、それは意図した障害を持たせているから変貌していくのです。
【サーサス『会話分析の手法』】
(面白そうな会話分析なんて分野も社会学にあります。でも私はまだ読んでない)
しかし考えを誰かに伝える場合、伝言ゲームと違ってこんな障害はないはずですね。伝言ゲームはゲームでありTV番組だからこそこんな障害を挟んでいますが、何か考えを学びたかったり教わったりしたいのにこんな真似はしません。それなのにマルクスとマルクス主義者の間にはこのような齟齬が生じてしまったのかもしれません(もちろん思想を発展させようとしてわざと読み替えることもあるので、一筋縄ではいかない)。
教わることと齟齬やズレ
なにもマルクスなんて持ち出す必要もないのかもしれません。今学ぶとか教わる、なんて書きましたが、たとえば学校で先生の言うことを聞く場合でも同じではないでしょうか。そこで教えられようとしていることが簡単に教わることができているのだとすれば、生徒間で大きな差など生じない気もします。しかし成績はクラス学年全国と、それぞれにちゃんと序列されます。教わっているものは基本的に同じはずなのに、きちんと差が出てるわけですね。
学校では教師の教え方が悪い、ということもいえるかもしれません。ですがお稽古事であってもやっぱり差は出るでしょう。いや才能の問題だ、と反対してみることもできます。しかし甲子園出場校のような野球エリートの場合でもやっぱり差は出るかと思います。まぁ甲子園の場合は教えている人も違いますから、ちょっと比較としてはズルいかもしれません。でも同じチームで頭角を現す人とそうでない人はいるはずで、また高校時代に頭角を現したからといってプロでも活躍できるわけでもありません。元プロの金村義明は甲子園優勝校エースはプロで活躍せえへん。俺や。とネタにされていましたが、そうなると才能だけが差の出てくる理由とは言いにくくなってきます。
伝達の困難とは?
ともかく、ある人からある人へと伝えられるものがそのままに伝えられるわけではないようです。U1(XA)→U2(XA)はなぜ難しいのでしょうか。XAは同じはずなのに、U1からU2へと移す間にどのような変化が生じてしまうのでしょうか。それも伝言ゲームのように意図した障害がないにも関わらず、どうして齟齬が生じてしまうのでしょうか。
当たり前のことなのですが、考えてみるとややこしくなってきますね。その理由をもうちょっと考えてみましょう。
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お話その17(No.0017)