もとの考えと学んだはずの考え
マルクス主義の問題なんて私には両手を使ってもまだあまり、押しつぶされてしまうくらいの問題ですからこの辺にしておきましょう。よく知らないこと書いて詳しい人をいらだたせる必要はありませんからね。どうしても言いたい、というのであればともかく、そんな気概もありません。
社会問題における理論と実際
ゼノンのパラドックスから考えられる問題に戻りましょう。理屈はあっているのに実際は違っている。もしくは実際に起こることと全く違うのに理屈はあっている。こうした点が問題でした。
【山川偉也『ゼノン 4つの逆理』】
そして大阪都構想でも共産主義国でも、そこで考えられた理論(もしくは考え、論理)がその中で間違っていなかったとしても、実際に行うとまったく違う結果が出る可能性がありえる。だからやってみればいいということにはならない、社会的な事柄は元に戻すには改革するのと同じだけの労力を要し、またとんだ悲劇も引き起こしかねないからだ、ということでした。
もとの考えと支持者たちとの考えの違い 〜私はマルクス主義者ではない…けど、玉ねぎを炒飯に入れると決めたことは一緒のはずなのに
さて、しかしソ連の場合マルクス自身の考えとだいぶん違う考えで実際へと至ったように思えますね。なんでもマルクスの活躍中からマルクス主義者はいたそうで、マルクス自身、私はマルクス主義者ではない、と言ったそうです。つまり、マルクスの考えを受け入れた、または学んだはずなのに、元祖であるマルクスから見れば全然違うように感じられたのだと思います。
これは考えてみると変ですね。だってマルクスの考えをAとしたら、それを受け入れた人もAと考えるはずです。マルクス(M)の考え(A)とマルクス主義者(M')の考え(A)は関係上MA=M'Aとならなければならないはずなのに、MA≠M'Aとなっているわけですから。
伝達されるはずの方法
また戻って玉ねぎの話を思い出してみましょうか。
玉ねぎを炒飯(A)に使うかカレー(B)に使うか、ここではそれを最初に使った人が決めているわけですね(マルクスの考えMA→マルクス主義者の考えM'A)。ですから玉ねぎは炒飯に使う、と最初の人が決めたとしましょう(UによりXはAである=U(XA))。そしてそれを次に使う人にも伝えます(U1(XA)→U2(XA))。この時使用者Uは1から2へと変わっていますが、中のXAは同じままです。ですから論理というものは同じはずです。
これはゼノンの時のように、それが実際にあっているかどうかということとは別の問題です。あってようが間違ってようが、その中での論理は一定のはずです。ゼノンの考えを図式した時を思い出してください。
アキレスと亀(ゼノンのパラドックス) 〜いくら足が速くてもアキレスは亀に追いつけ ない? - 日々是〆〆吟味
(↑リンクを覚えました/←最初に書いたころはそうでした)
これは下の図が実際とあっていて、上の図が間違っていたのでしたね。
伝達過程において問題のないはず?
しかしどちらも理屈の上(論理)ではおかしくないから問題になるのでした。しかし論理が伝えられるとしたら、それが正しいかどうかということは関係ありません。なぜなら完結した論理だけが伝えられるからです。
となると、ここでゼノンのパラドックスとは違う問題が出てくることになります。ちょっと寄り道して、これからまた考えてみましょう。
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お話その16(No.0016)