前回のお話
デカルトの心身二元論と松果体
デカルトと心身二元論
デカルトの同時代には自然界というものがひとつのメカニズムによって動いているらしいということがわかってきた時代であり、それが自然界すべてを覆い尽くすものであれば人間の身体も同じように捉えられるはずであって、結果人体というものも機械論的に捉えられるようになって人間の精神と分離された形で理解されていくことになった、というわけで、後世非難されてしまいました。かわいそうなデカルト先生です。
【ダマシオ『デカルトの誤り』】
(こんな本まであります。ただ私は読んでません)
しかしデカルト先生も身体と精神の分離をなにもせずに放っておいたわけではありません。ですがその方法というものも上手くいきませんでした。上手くいかなかったから今日まで文句言われてます。
身体と精神をつなぐものとしての松果体
ではどのようにデカルト先生は心身二元論の問題を乗り越えようとしたのでしょうか。それは頭の中に松果体という部分があって、それが精神と身体の橋渡しをしているのだ、というものでした。
【デカルト『省察』『哲学原理』】
(デカルトが心身の問題を扱っていたのはどこだったか忘れたのですが、多分こちらのどちらかかと思うので載せてみました)
たしかにこの説明、なんだかナンセンスな気がします。身体の一部分が精神を司るっていうんなら、その部分ってのはどんな機能してるんだ、と不思議に思えてきますものね。今だって脳科学が探求しているものってそういうことなんじゃないんでしょうか。それを松果体といったって、じゃ、その松果体はなんでそんなことできんだ、と思ってしまいます。
よくわからない松果体と当時の医学
しかしこの松果体、当時はどんな働きをするのかわかっていませんでした。というのもおそらくは人体というものが現在から見ればほとんどわかっていなかったのではないかと思います。
というのも私たちには血液というものがありますが、これが心臓を通して全身を回り戻ってくる、ということがわかったのもデカルトとほぼ同時代のようだからです。ハーヴェイという人が血液循環の原理を確立するまで、どうやら血液は全身に行き渡るらしいが心臓はそれを押し出すポンプの役割を果たすだけで、もう一度心臓まで戻ってくるとは思われていなかったそうです(多分。そう読んだ覚えが…)。そして血液は全身の末端まで行った後は汗になって出る、というように考えられていたそうです(多分。だったと思う)。
【ハーヴェイ『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』】
(ハーヴェイの本はこちら。意外と科学の古典も翻訳されていて驚きますね)
人体についてまだこの程度の理解だったわけですから、デカルトが身体を機械論的に捉えるだけでなく、精神との関連もはっきりさせて心身二元論を乗り越え、松果体であれなんであれどのように精神に身体が関わりあるのかを説明し尽くすことは、やっぱりちょっと無理があるんじゃないかな、と思ったりもするのでした。
次回のお話
お話その280(No.0280)