前回のお話
クザーヌスの無限と神の絶対性とのちの世代へのつながり ~ブルーノの異端視される無限へとつながる正統派クザーヌスの無限 - 日々是〆〆吟味
アリストテレス哲学とキリスト教神学
ところで宇宙や世界が無限であるということを問題としたということは、中世の宇宙観や世界観というものはある程度限定されているものとして考えられていたのかもしれませんね(よくわからない。読んだはずかもしれないけど、頭に残ってない)。そうした考え方の基礎となったのはヨーロッパにおいてイスラームから再輸入されたアリストテレスによってかと思いますが、どうもアリストテレスの考え方というのは根本的にキリスト教的考え方ともあわない要素もあるそうです。
永遠としての世界
というのもアリストテレスは宇宙や世界というのは永遠のもので、過去から今日まで、そして未来までずっと同じように続いていると考えたそうです(と思ってたんですけど、本当にそうだったか自信がなくなってしまいました。そう読んだ覚えがあるんですけど、もしかしたら違ってたかも…)。
【アリストテレス『自然学』『形而上学』】
(どこに書いてあったか定かですらないのですが、一応アリストテレスのこれらの本を載せておくことにします。私の言うことはいいかげんなので、よければ読まれて確かめてください)
これは確かアリストテレスが哲学上のアポリア(難問)としても挙げていたかと思うのですが(これも勘違いかも…)、世界に始まりがあるのかないのか、ということは最終的に確かめられないような問題なのですね。そして多分アリストテレスは世界を完成されたものとして私たちの前に現れたと考えてたような気がするのですが(やっぱり間違ってるかもぉ〜)それがひとつの考え方として置かれることは別におかしいことではないかと思います。
始まりのある世界
一方キリスト教ではどう考えるかというと、聖書のはじめにある通り、世界は神さまが創ったことになっています。ということはキリスト教的世界観では世界っていうものは始まりがあるわけです。それは神さまが創ったことによって始まるわけですね。
【聖書】
そのためアリストテレス=ギリシア哲学とキリスト教というものは色々と噛み合わない要素がたくさんあるそうです。それなのに中世においてアリストテレス哲学を用いてキリスト教神学を再構築してしまう側面があって、その狭間で無理がいっているところもあったそうでした(多分。そんなこと書いてあったような気が…)。
体系としてのアリストテレス哲学
じゃあなんでアリストテレスを使ったのかといえば、そりゃアリストテレスがとんでもなく偉くってそのことに中世の神学者が気づいたからだ、というのもあるのですが、アリストテレスの著作というものが世界すべてを包括するような偉大な体系性をもちえていたからだといいます。
それは同時にキリスト教の側から見れば神を中心とした世界の在り方を基礎づけるのに役立つようにも見受けられたそうです。そのため齟齬や無理がありそうなものも乗り越えてトマス・アクィナスという中世最大の神学者の手によって果たされたのだそうです。
なんかますます怪しい内容になってきてしまいました…困った。
次回のお話
お話その258(No.0258)