前回のお話
人間の物質としての人体や脳と総合的な関係性の総体としての自我や私という概念 ~科学による最終的な物質への究明と、認識できないものへの理解の仕方としての概念化 - 日々是〆〆吟味
世の中でわからないことと気にしてしまうこと 〜でも気にしなくなったって別の新しいものが現れる?
世の中のたくさんなわからないこと
身体のことであってもわからないことがたくさんあるとすれば、世の様々な事柄であってもわからないことはたくさんあるような気もしてきます。そういえば以前TV番組で動物のことをやっていた時研究者の方が、生き物のことってわからないこと多いですよ、と言われていたことをふと思い出しました。私のような素人は専門家はなんでも知っているように想像してしまいますが、案外まだまだわからないこともあるのかもしれませんね。
見方を変えれば、だからこそ科学は発展しているのかもしれませんし、これからまた新しいことがわからなくなったりもするのかもしれません。新しいことがわかったために、さらに新しく知らないといけないことが増えたりするかもしれませんしね。そうしたことから終わりなき道が科学や学問というものなのかもしれませんね(なんか壮大)。
【クーン『科学革命の構造』】
(科学哲学の有名な本なんですが、科学っていうのはひとつの革命的な理論的枠組みが生まれるとその中で解決可能な問題を次々と埋めていって、そのうちどうも説明出来なくなってくるとそうした諸々も含めて理解することが可能な新しい理論的枠組みが生まれてきて発展していくんだよ、というような考え方をしています。短くて面白く読みやすいです)
最終的にわからない領域
ただそれとは別にやっぱり人間の認識能力では最終的にわからない領域というものはあるだろう、ということがカントを読んでいて思ったりもします。生き物であれば捕まえて観察することが困難であればわからないのは確かめうる経験的な情報が得られないためと考えられますので、最終的に捕まえて目的となる箇所の観察がなされればそのうちわかるだろう、と想像出来るのですが、そもそもわかりようのなさそうな自我とか私とかはひとつの現象であって確かめうる経験的な情報からは捉えきれないような気もしてきます。
【カント『純粋理性批判』】
(近代哲学史上最高の哲学かと思うのですが、人間の思考能力を吟味して限界の領域を線引きしたような面のある本です。詳しい内容は聞かないでください。私には荷が重すぎます)
社会の中で気になる事柄 〜わからないのに気にしちゃう
しかも神については今の私たちの生きている世界では無関心でいられますが、自我とか私とかは必然的に気にしてしまうような関係性の中に投げ入れられているようにも思えます。個性を尊びなりたい自分へとなれるように誘惑してくる広告的メッセージに囲まれているので、嫌でも自分がどんな存在か突っつかれてるような気になってきそうですものね(そして中世ではきっと神こそがこうして突っつかれるようなものだったんでしょうね)。ですからわからないもののはずなのに考えてしまうような、そんな環境に私たち現代人は生きているのかもしれません。
【ユーウェン『欲望と消費』】
社会と構造 〜意識しなくなっても代わりのものが現れる
もし私たちが自我とか私とか考えなくてすみ、意識する必要もなくなるとすれば、社会からそうしたメッセージがほとんどなくなる日かもしれません。それは個人とか私とか自我とか、そうしたものに価値を置かないような社会の現れになるのでしょうけど、それがいいものかはわかりません。またそうして自我や私というものを意識する必要がなくなった社会になったとしても、広告的メッセージは別のなにか、その社会で大切と思われていながら手に入り難い価値観を象徴的に演出することで、その社会に生きることとなった新たな私たちに対して誘惑してくることも変わらないかと思います。案外社会が変わったとしてもその素材が変わるだけで、行われていることは変わってなかったりするのかもしれませんね。
200年くらい生きてみるとそんなことも実感を持ってわかるかもしれませんが、わかる前に虚しくなってしまいそうでもあります。
次回のお話
天才と狂気の関係性と、哲学の契機となる自分自身に抱え込んだ矛盾 ~天才が狂気の淵へと追い込まれる人間の認識能力を超えた問題への苦闘 - 日々是〆〆吟味
お話その242(No.0242)