日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

天才と狂気の関係性と、哲学の契機となる自分自身に抱え込んだ矛盾 ~天才が狂気の淵へと追い込まれる人間の認識能力を超えた問題への苦闘

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前回のお話

よくわからない世の中の不思議と最終的に理解不可能な領域の問題に対して意識してしまう社会構造の中の私 ~もろもろの問題を意識させられる要因は変化しても、また新たな問題が意識させられる - 日々是〆〆吟味

 

 天才と狂気の関係性と人間の認識能力を超えた問題への苦闘

人間の認識能力の限界と矛盾を抱え込むこと

世の中にはわからないこともまだまだたくさんあって、人間の認識能力や思考能力においても限界があるもんだからどうしてもわからないこともあったりして、しかしそうしたわからないことに対して色々と考えていかなくてはいけないってことはありそうなことですね。

 

ある種の矛盾を抱えたり突きつけられたりした時がそうなのかもしれませんが、それが自分たちの生存基盤を揺るがす時期において顕著になってくるということはあるかもしれません。

 

自分たちの世界の危機と偉大なる思想

たとえば日本には洋の東西に存在するような大思想はありません。その根本には偉大なギリシア思想だったりインド思想だったりがあるからということも考えられますが、それだけでなく日本があまり外敵との関係で本格的に脅威となった時期が少ないからだとも言います。

 

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私が読んだ限りでは加藤周一が述べていたと思うのですが、日本における最も偉大な思想的時期は鎌倉仏教だというのですが、それは同時に元寇のあったとも言います。それがなぜ偉大な思想を生み出すことになるのかというと、自分たちの行きたいか世界が根底からひっくり返るような危機感や体験を持つことによって、それを乗り越えようとすることにより偉大な思想が生まれてくるのだ、というのです(こんな言い方だったかは覚えてないけど)。

 

加藤周一『日本文学史序説』】 

(超圧縮した日本文学史なんですが、この中で鎌倉仏教の意義を説明されていたと思います。私はあまりの濃密な情報量に軽く溺れてしまったので、はっきりとは理解できていません)

 

似たような体験は戦後思想の巨人とも言われる吉本隆明(加藤周一と同時代人)も述べていて、戦前鬼畜米英といっていた大人たちがそのままなにも自分たちが発していた発言に対して振り返ることもなく、今日からは民主主義だ、と言い出したことに天地がひっくり返るような気がした(これまたこんな言い方だったか覚えてない)、と言います。そしてこうした拘泥を胸に抱きずっと自分の中で考え続けていたわけですね。

 

吉本隆明『最後の親鸞』】 

(吉本隆明はどこで言ってたっけなぁ…とりあえず鎌倉仏教との関係もありますし、こちらを載せておくことにします)

 

哲学の契機とはどのようなものか

さらにまた、近代哲学でもちょっと変わった言い回しをすることもあります。

 

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たとえばデカルトは人生で一度は自分の考えをすべていちから点検し直す時がある、と言いますし、カントは哲学を教えることは出来ない、出来るのは哲学をすることを教えることだけだ、なんて言ってたりします。またハイデガーは死を前にすることこそ哲学の始まりである、とも述べたそうです(これは又聞き)。自分の死とはつまり、認識できる対象ではないものですね。

 

自分の中の矛盾と生き死にの決断

こうしたことはおそらく、自分の体験の中に人間の認識能力を超えたものをどこかで抱え込むから起こってくるのだと思います。そしてそれは解決しなければその人にとって生き死にを決めるような非常に重要なことなのだといえます。

 

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しかしそれゆえに現代においてはそうした人は生産性に寄与しない余剰人であると捉えられ、精神病のレッテルを貼られているのかもしれません。昔から天才となんとかは紙一重、なんて言われたりしますが、それはこうした背景があるからかもしれませんね。しかしそれば逆に言えば天才とは狂気の渦を進んだ先にしかないということかもしれません。

 

天才と狂気 〜桂枝雀師匠の場合

かの談志も逃げ回っていたという天才落語家桂枝雀師匠は、今日のお笑帝国吉本を築く礎となった(と、私が勝手に思っている)考え方である〝緊張の緩和〟を生み出した方ですが、その徹底した態度に取り殺されたかのように自死を選ばれてしまいました。枝雀師匠は晩年精神を病まれていたそうですが、しかしそれは枝雀師匠が精神病者だというよりも、天才であったがために踏み入れた領域が人間の認識能力を超えた領域であったためのようにも感じます。

 

桂枝雀桂枝雀のいけいけ枝雀、気嫌よく』】 

(枝雀師匠のインタビュー集です。この中で枝雀師匠がいかに死について拘って考えているかが知ることが出来ます。また緊張の緩和も自分が楽したいから単純化したいだけ、などと言いつつ、それがただのサボりではなく笑いへの徹底した態度であることもほの見えます。枝雀師匠は弟子っ子の時あまりに練習に夢中で、子守していた米朝師匠の子供を連れたまま何駅も歩いて行方不明になったそうです)

 

 

さんまは『さんまのまんま』で作家の西加奈子が来た時、さんまさんは徹底した人だから、と言われたのに対し、いえ、ぼくはいい加減なもので、と言って、あまり突き詰めると危ないな、と思っていて、きっと枝雀師匠はそうした所へ行かれてしまったんやと思います、なんて事を言っていたのを思い出したりもします(これもこの通りだったかわからない)。多分さんまはこうした周りの偉い人たちからたくさん学んで今の実力と立場を築いてきたのだろうな、と思ったりもしますね。

 

不可避の危機と偉大な思索

ともかくこうした危険かもしれないけど不可避に訪れる危機というものがある種の思索においては非常に大切であり、かつなにかを生み出すために絶大な役割を果たすのであろう、ということは漠然と感じられます。人間は人間の認識能力や思考能力を超えたところのものに死ぬ気でつかみかかってなにか人とは違う偉大なものを生み出すのかもしれません。そして私たちは知らないうちにそうした偉大な人たちの生み出したもののうえによって快適な生活をしているのかもしれないのでした。

 

次回のお話

矛盾とは認識できない領域への思考である哲学や思想へといざなう日常的な契機となる ~論理的解決では果たされず残されるままの矛盾 - 日々是〆〆吟味

 

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 お話その243(No.0243)