前回のお話
実存主義の前の生の哲学
ハイデガーと生の哲学
ハイデガーは実存主義とか実存哲学とか呼ばれるのですが、どうもいきなりそうした哲学が現れてきたようでもないようです。というのもその前に少し似たような考え方の哲学があって、そうした流れの中にハイデガーもいるそうです。
【ハイデガー『存在と時間』】
それはどのようなものかといいますと、生の哲学、と呼ばれるものだそうです。
私は数冊似たようなものを知らずに読んだのですが、確かになんとなくハイデガーや実存主義とかいうものと似ているようなところがあります。というのも、生、とは人間の生を考える哲学のようだからです。
人間の生
この生というものがなんなのか、といえば、やはりデカルト以降の心身二元論の克服を目指すもののひとつであったようです。こうした流れはずっとあるのですが、哲学の中でも神秘主義の流れに結びついてしまうようなものらしく(よく知らない)、直観などによって物事の分離を乗り越えようとするそうです(またまたよく知らない)。
というのもカントの認識論によって客観的となる物の認識が現象と物自体に分かれてしまったからですね。デカルトによって精神と身体が分かれたようにカントによって物そのものと人間が認識出来るものとが分かれちゃったわけです。多分、人間の認識は人間の知れる領域以上のものは認識出来ないのだと思います。ですがカント以降はそれを乗り越えようとしたのかもしれませんね。
【カント『純粋理性批判』】
そして人間はそうした認識出来るものも認識出来ないものとを両方抱えながら生きているわけで、この矛盾した存在である人間そのものの在り方が探求される対象に移っていったのかもしれません。その結果人間の生というものが哲学となっていったようです。
哲学者ジンメル
その生の哲学として述べられるものは、社会学の建設者の1人ともみなされる哲学者ジンメルでした。ジンメルはその名も『生の哲学』という本を書いていて、そこで自分の哲学を説明しています。
【ジンメル『生の哲学』】
(ジンメルの本は日本でも著作集の中にまとめられていて色々読めます。ジンメルは多分社会学者として有名なのですが、著作集には哲学者としての側面のものが多く含まれているような気がしました。その中の一冊ですね)
それをハイデガーは学生時代に熟読したそうです(解説に書いてあった)。その影響のもとハイデガーは自分の哲学を築いていったのかもしれませんが、残念ながら私はよく知りません。ただジンメルはハイデガーの『存在と時間』を読んだ時に、哲学においてはハイデガーは自分より優れている、と述べたんだそうです(これも解説で読んだ)。なんだか間接的な師弟関係みたいでもありますね。
オルテガ
逆にスペインの哲学者のオルテガは、最近現れてきた実存哲学というものはかつて生の哲学と呼ばれていたものの別名だ、というような書き方をしていたような覚えもあります。多分暗にハイデガーを批判してるんじゃないかと思いますが、同じ哲学でも受け取り方が反対なのがちょっと面白いですね。それにジンメルもオルテガも哲学者としてより社会学者/社会科学といった点で後世に名を残しているので、なにやら人間の生というものは社会との関わりの中で問題にされるべきものなのか、とも思ってみたりもします(そういえばサルトルも晩年はマルクス主義者として社会改革に身を投げることが重要だと考えて行動に出たとか)。
【オルテガ『大衆の反逆』】
(オルテガがそんなことを言っていたのはこの本だったと思うのですが、オルテガも日本で著作集が出ているので、もしかしたらその中に精神分析の哲学関係のものがあるかもしれません)
人間の生というものこそ考えると難しいのかもしれませんね。
次回のお話
お話その284(No.0284)