前回のお話
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フロイトの無意識の捉え方と人間精神の理性・不合理と社会の不合理の類似性 ~よくわからないものに突き動かされる人間の精神
ル・ボンとル・ボン以外の群衆理解
ル・ボンの『群衆心理』を斜めに見ながら群衆についてちょぼちょぼ書いてきてみましたが、別に群衆についてはル・ボンだけが説明したわけではありません。ル・ボンの考えた後をひいて新しく考えた人もいました。そこでル・ボンについては不十分かもしれませんがこの辺りにして少し先に進んでみたいと思います(といってもお話出来るのは私の知っている程度の範囲にしかなりませんから大したことはないんですけど)。
【ル・ボン『群衆心理』】
フロイトと無意識
ル・ボンの後に群衆について考えた人にフロイトがいます。フロイトはとても有名な人で、思想界隈について詳しくなくても誰でも知っているような偉い人です。アインシュタインみたいな感じでしょうか。しかしアインシュタインの相対性理論よりかはフロイトの精神分析の方がなんとなく内容を知られているかもしれませんね。
【フロイト『精神分析学入門』】
(フロイトの考え方をフロイト自身が簡単に説明したもの。結構今の私たちの考え方となっているものもあるので、読むと面白いかもしれません)
フロイトの理論はわかりやすすぎるくらいわかりやすいように読めるところと、さっぱりわけがわからないところとがあって、ある意味とても難しい考え方です。それに時代によって理論の修正もされていて、初期の頃と説明や理解が変わっているところもあったりします。そのうえフロイトの理論が革命的であったがゆえに、今となっては当たり前になってしまった考え方もあって、なぜそんなものをいちいち説明しているのか現在の読者からはわかりにくくなっていたりするところもあったりします(私だけ?)。
一番有名なのは無意識という考え方(概念)を定めたことかもしれませんね。無意識という考え方は一般にも広まり、私たちも平気で無意識でやっちゃって、なんて言ったりもしています。ただこの無意識という考え方を生み出す肝となったのは自我についての考え方と性についての考え方の合わさったものだったと思います(フロイトの本は本棚の奥にあって引っ張り出さないので、失礼ながら記憶で書くしかありません。申し訳ない)。
【フロイト『自我論集』『エロス論集』】
(フロイトが自我や性について書いたものはこちら。『精神分析学入門』と違って専門的で難しさが跳ね上がってしまいます。先読まない方がいいと思います)
こうした自我や無意識という考え方でフロイトが捉えようとしたものは、なにも精神病だけではありません。そうではなく精神病を発症する元々の精神、人間の精神というものについて鋭い視線を投げかけたのでした。そしてそれはなにもフロイトや心理学というものだけが行ったわけではなく、近代哲学そのものが人間という存在を新しく定めていった側面があるからでした。フロイトはその流れに連なる者として現代で考えたわけですね。
明晰な精神=理性と、不合理な精神=無意識、の思想史
簡単にだけ説明しますと、近代哲学は人間を明晰な精神をもった理性的な存在だ、と考えました。それは近代以前の中世を暗黒時代と呼んだことに対する反動でもあります。ルネッサンスはそうした態度をとったようですね。つまり中世はキリスト教/神学によって支配されていた無知蒙昧な時代であったが、自分たちはアリストテレスに連なる真の哲学に結びついた時代の人間である、というわけです。それは前の時代を否定することによって自分たちの時代を立派なものと判断した、と捉えてみることも出来ます(なんかオルテガみたい)。そして無知蒙昧な中世の人間観に対して理性により適切かつ合理的に判断できる人間観へと転換していくわけです。ある意味では進歩的な態度ですね。
【アリストテレス『形而上学』】
【ペーター『文芸復興』】
それがデカルトからカントにいたる流れだとしたら、基本的に人間は感情や不合理なことに対して理性を用いることによって合理的に判断出来る、と考えられたわけです。しかしその理性を中心とする合理的な判断の底に、無意識というわけのわからない領域を定めて不合理的なものに人間の精神は突き動かされている、ともう一度人間観を転換したのがフロイトなわけです。フロイトが特別患者を治すことの出来なかったと言われながらも、思想史的に重要なのはこの点において間違いありません。ついでにいうと精神分析も心理学や治療技法というより哲学的な観点から捉えた方がいいのかもしれませんね(でもお医者さんはなんて言うかなぁ)。
【デカルト『方法序説』】
(自我という考え方はデカルトからはじまります。でもフロイトにまでいたるとデカルトの時と意味が違ってきているような気もするけど…)
【カント『純粋理性批判』】
(で、人間の精神のうち理性というものの可能な範囲を徹底的に考えたもの。くそ難しいので説明は私には重荷過ぎます)
社会の不合理と人間の理性・不合理
もひとつついでに言いますと、こうした理性的な人間観に対して疑いの眼差しを向けて批判しているのがル・ボンやオルテガの書いたものだとも言えます。オルテガは大衆に対し貴族/エリートを対置させたくらいですからゴリゴリの理性主義者だと思いますが、しかし本来そうした理性的人間観によって担われるものとして定められていた様々な社会的制度が現実には中々上手くいきません。それはなんでなのか、といえば、やはり人間は理性的なだけではなく不合理的に動くからなのではないか、という観点も生まれてきて当然です。それを社会相手に行ったのがル・ボンやオルテガであり、人間存在そのものにまで向けたのがフロイトだと捉えてみることも出来ます。
【オルテガ『大衆の反逆』】
【パレート『一般社会学提要』】
(社会がいかに不合理に動いているか、ということを残基という概念を使って説明したもの。見方によっては残基って社会的無意識みたいなものかもしれませんね)
そしてそんなフロイトが自身の理論を踏まえた上で群衆(直接群衆と書いていたか忘れた)について考えたものがあるのですが、長くなってしまいましたので今回はこれで終わることにします。
次回のお話
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お話その198(No.0198)