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群衆の自我の喪失とそのゆくえ ~我を忘れて誰かに自我を求めちゃう!?
フロイトと群衆
フロイトは群衆についてどう考えたのでしょうか。記憶を頼りながらちょっとお話してみましょうね。
【フロイト著作集】
(たしかフロイトが群衆について書いてたのはこの巻だったんじゃないかと思うのですが、間違ってるかもしれません)
群衆と自我喪失
群衆っていうのはル・ボンが述べた限りでは個人を喪失してしまう現象のようです。そこではどんな賢明な人でも個別性を失い群衆心理に染められてしまうことになります。
【ル・ボン『群衆心理』】
フロイトはこの群衆を自我の喪失というように捉えたようです。ここでいう自我がちょっと難しくて私にはよくわからないのですが、まぁとりあえず自分というものを確固として築いて持っているようなもんだと思っておきましょう(ちゃんとした理解はフロイトに聞いてね)。そして人間はもともと身近な人間(親や兄弟や友人)によって自我形成されていくのであって、そんな大人数を相手にして自分の精神を作り上げているわけではない、そのため大勢の群衆なんてもんに出くわすといくら作り上げた明確な自我であってもいきなり対処したりすることはできないわけです。いわば驚いてパニックになって、どうしていいか分からなくなってしまう、というわけなのでしょうね。これが自我の喪失とでもいうものなんでしょう。
群衆の持つ自我のゆくえ
それが群衆においてはそれぞれの人間ずつが、同じ状態になるわけです。それぞれ自我が弱まっている状態の中で、どこで自分を持たせることになるのでしょうか。
本来自我というものが人間の基本的な精神の機能のひとつであるとしたら、それが失われたままでは人間の精神はうまく動かないことになります。群衆はたしかに個人としての人間よりは知的に劣るとル・ボンは述べていたはずですが、しかし人間としての機能まで失ってしまうわけではないでしょう。となるならば群衆化することによって失われた自我は、どこかにその代わりを求めなければなりません。
それが群衆を操る役割の人へと投射させられている、というのです。
指導者の暗示と自我の感染
ル・ボンの時も説明されていましたが、群衆は暗示にかかりやすい状態にあります。そのため古来より指導者となる人間は政治だろうが宗教だろうがこの群衆の特性を無自覚的にでもよく理解し利用していた、と言います。それは言い換えてみるならば、群衆に対する指導者が暗示をかけている人間になる、ということにもなります。
この暗示をかける者、この人は群衆ではありません。群衆から1人抜けた人です。そうした人は群衆と共にいながら自我を失った人ではありません。そうではなく、自らの自我を群衆に感染させていく者になるわけです。
その結果自我を失った群衆は自らの自我の代わりとして指導者の自我を受け入れることになる、というのです。いわば群衆は自我を失うことによって、指導者の自我へと感染していくわけです。その時指導者が群衆に感染させるために自らの感情や自我を表現することが必要です。そのため群衆を相手にした場合、内容より表現=パフォーマンスの方が重要になってくるのですね。
指導者に対する自我の投射
そしてまた、群衆の側でも自らの自我を指導者となる人物へと投射していきます。指導者にとって群衆は自らを拡大していくための媒介となりますが、群衆の側では自らの喪失した自我を埋めるものとして指導者が働きます。結果群衆側では自我の代替物として指導者が求められ、指導者側では自らの拡大のために群衆が必要とされます。
この関係はもちろん、政治や思想、宗教といったものだけには限りません。もっと私たちの日常の中にありふれたものとしてあります。で、次にそれを書けたらいいなぁ、というあたりで終わっておこうかと思います。
…なんかフロイトの話からまたそれちゃった気がします。要は群衆って自我が弱体化してて、その代わりに群衆の対象となる指導者に自我を投射して、その結果指導者の自我が群衆全体に感染させていく、っていうことだったと思うんですけど…困ったな。気になった方はフロイト読んでね。
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お話その199(No.0199)