日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

テレビとネットとYouTube:舞台芸人からテレビ芸人、YouTuber芸人へ 〜素人から大御所へと実力を身につけたかつての若者たちと新しい今の若者、更新されていく芸道の基準と旧世界の実力者の壁

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前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/02/28/200027

 

 テレビとネットとYouTube 〜素人の築いた圧倒的な実力のTV世界=芸の本道と、新たな素人の場たるYouTuber。もしくは古い素人の時代と、新しい素人の時代

大御所となった、素人と呼ばれたかつての若者たち

80年代TVメディアを素人の時代、と括った吉本隆明でしたが、当時素人と呼ばれた若者たちは今や押しも押されぬ大御所になっています。ヒロミが一時期TVから姿を消し、とんねるずがかつての勢いからは信じられないくらいに新しい世代に嫌がられて番組を失いましたが、ヒロミは復帰してかつてとさほど変わらぬほどに活躍されていますし、とんねるずも番組を失いはしましたが木梨憲武などは飄々として元気な様子です。ウッチャンナンチャンもそれぞれに大きな番組の司会として活躍されていますし、ダウンタウンは吉本帝国なんて呼ばれるほどの大きな会社の看板です。去年あれほどの騒動になった吉本問題も、年末の『笑ってはいけない』で見事元SMAPまで巻き込んで風刺にし笑いへと昇華させてしまいました。とんでもないたくましさです。森脇健児だけちょっとかわいそうな立場かもしれませんが、それでもしぶとく生き残り赤坂マラソンでは存在感を今も示し、松竹芸能でも大きな存在感を示しているようです(前回ブックマークで教えてもらえたのですが、なんでも関西のイベントではよくお見かけするようです。TVだけが活躍の場ではない、という元祖かもしれませんね)。

 

吉本隆明『情況としての画像』】 

 

虚名ではなく、確固たる実力を身につけたかつての素人たち

これらの方々は、たしかに当初現れてきた時には素人として、つまりそれまでの芸の世界からは切り離された存在としてTVに登場してきたのですが、30〜40年もの間厳しい芸能界で生き残り続けてきたということは、その能力までもが素人ではなかったことを意味すると考えることが出来ます。つまり師弟関係の中で磨かれた芸とは異なる形でTVオーディションや学校出身者は自らの芸を磨いてきたとみなせるわけですね。ダウンタウンが吉本の庇護下にあるからといって、それだけでデカい顔していると思うのはさすがに間違っているように思います(助かってる面はたくさんあるだろうけども。浜ちゃんの浮気の話題なんて松ちゃんしかネタにできないもんね)。

 

芸道の新たな基準となった、かつての素人たちの築いたTV世界

さて、そうした素人だったはずの今や大御所芸人となったかつての若者たちですが、最早十分な実力と地位を持った権威としてTVメディアの中に位置づけられている、とみなすことも出来ます。そしてかつてならやすし師匠が属していたような師弟関係での芸道も、吉本のNSCに代表されるような学校/養成所が当たり前になりました。そして弟子入りしていないから芸がないとは言えない、と思うためにはM-1の最終決勝を見ればわかるような気もします。大半が学校出身者か素人のままオーディションで事務所に所属した人のはずで、弟子入りした人の方が少ないと思います(案外多いのかな。中川家と世代が一緒で、やすともの愛称で親しまれる海原やすよともこ中田ボタン師匠のお弟子さんだそうですけど)。

 

筑紫哲也『若者たちの神々』】 

(当時新世代として現れた若者たちを筑紫哲也は新人類と呼んでまとめたことがあります。この中には浅田彰中沢新一といった知識人と共に、とんねるずなども含まれていたようです。そうした人々のインタビュー集らしいのですが、残念ながら私は読んでいません。多分当時の様子が窺い知れるのではないかと思い載せてみました)

 

つまり、素人の時代とみなされた人々は、その後自分たちの世界として見事に洗練させた芸の世界を形成させることに成功したのです。それはかつてのプロの世界から見れば邪道の素人くさい世界であったかもしれませんが、数十年という月日をかけて、立派に独自のプロの世界を築き上げたことになります。和牛の漫才はとても素人のままで作り上げることは出来ないでしょう(頑張ってね和牛!)。それはたしかにそれ以前の過去から比べたら玄人の芸道ではないかもしれませんが、間違いなく玄人の芸に達しているわけですね。

 

学校(NSC)とお笑い帝国

そういえば世間的にはきっとM-1の審査員でおなじみのオール阪神巨人の巨人師匠が、最近の若手が面白くなってきたのは学校が出来たからですよ。今までやったら弟子入りせなあかん。弟子入りせなあかん時点でハードルが高かった。師匠に弟子入り認めてもらわなあきませんからね。そこで才能のあるやつも足踏み入れへんかった。それが学校になったから気兼ねなく入ってこれるようになった。それがたくさんいて、そして伸びて今の若手がいる、といったようなことを『桃色つるべ』という番組で言っていたのを見た覚えがあります。この観点にたてば、やすし師匠が断固として譲らなかった師弟関係の芸道とは違う道をとったからこそ、今日のお笑い帝国を築き上げることが出来た、ということも出来るかもしれません。

 

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また吉本問題の時にたくさん報道されていましたが、吉本が強くなったのは当時のダウンタウンみたいな若手が活躍出来る小劇場を大劇場である花月とは別に作り、そこでスターにしてTVに売り出し、憧れた若者をNSCに入れ、また小劇場で育ててTVでスターにする、という好循環を作り上げたところにある、とも言います。これもまたかつての師弟関係では不可能なことであったでしょう。たしか巨人師匠がこれについても述べていたような気がしますが、もし弟子入りされていたら、そのタレントを使うとしても一々その師匠にお伺いを立てなければいけない。けど会社の学校卒のタレントであれば、自由に扱える。これはそのタレントをTV局が使うといった時、身軽さという点で全然違うそうです。さんまはTVに出たいと師匠に言った時、ええんちゃうか、と言ってくれたから出れて、許可された時にガッツポーズをした、なんて聞いたりもしますし、もし許可されてなければTVに出てなかったとも言っていたような気がします。あの天才(化物?)も師匠の許可なければ今のようになれていなかったと思うと、師弟関係の縛りというのは門外漢の私たちが思う以上に強いのかもしれませんね(上沼恵美子はお姉ちゃんを見てて弟子入りなんかするもんやない、と思ったそうですけど)。

 

【常松 裕明『よしもと血風録』】 

 

新しく作られていった、TVでの芸の本道

ついでにいえばさんまはフリートークだけの番組を始めようとした時、それはさすがに無理だよさんまちゃん、と当時のスタッフに言われたそうですし、たけしも『いいとも』の最終回でタモリに向かって、我々よく怒られましたね、それまでの芸人と違ってたから、全然認めてもらえなかった、というようなことを話されていたような覚えがあります。お笑いBIG3もかつてはそう言われていたけど、己の道を洗練させてTVの普通にしてしまいました。フリートークなんて今や当たり前になり、さんま曰く、モデルや素人でも笑いをとるようになった、自分たちのやってること小さい時から見てるからや、なんて状況です。かつての基準なら認められなかった、いわば邪道に見えたものが実力で芸の本道になってしまったわけです。

 

確固たるものとして成立された、新しい芸道世界

しかしそれゆえに新しい世代には、かつての素人とみなされた若者たちと同じ問題にぶつかってしまいます。やすし師匠が固辞した師弟関係からの芸道、それと同じようにしてたけしやさんまが築いてきたTV世界の中での芸道というものが、既に確固たるものとして成立しているわけです。そしてその世界の中で通用するように我が身を合わせ芸を磨いてきた者だけが、TVという最も華やかな世界へと足を踏み入れることを許されたのでした。それはM-1を見ればわかることで、それこそ巨人師匠に弟子入りしているかどうかということなど関係なく、M-1という舞台で優れた漫才を披露することこそが重要なのであって、腕によって決められるのです。(そしてやっぱりM-1にはM-1向きのネタというものがあるらしく、おそらく東京の現役漫才師として筆頭格である爆笑問題の太田が、素晴らしい漫才でしたよ、という和牛も優勝出来ないでいます。しかし和牛が優勝に満たない腕やネタであるとは到底思えません。ましてや毎年ネタの形まで変えているのは、恐らく驚嘆することではないでしょうか)。

 

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師弟関係からTVへと移動した芸の本道

それは師匠弟子といったかつての価値観から、TVの価値観へと支配的な価値観が変化していった、ということかもしれません。ただそれは同時にTVという形で徹底して洗練されて作り上げられた芸の世界が既にあり、そこを通してしか世に出ることは出来ない、ということでもあります。かつて素人として既に築かれた芸をひっくり返すような真似をして現れた若者たちが、今度は大御所として自らの道を芸の本道として敷いたわけです。そしてやすし師匠が固辞したような師弟関係の代わりに、自分たちの芸道を実力で固辞しているわけです。今のTVでかつてとんねるずがやったように既成の芸道をひっくり返すような真似をする素人が現れてきても、間違いなくさんまやダウンタウン、またはくりぃむ上田が実力でねじ伏せるでしょう。最早TVは昔のように素人が活躍出来る余地など残されていないのです。実力者でひしめき合っており、また本当に実力があるため半端に挑みかかっても敗れるしかないのです(そういえばおぎやはぎが一度若手を集めてさんまさんの裏番組やったことあるけど、勝負にもならなかった、なんてなにかの番組内で発言していたような覚えがあります)。

 

圧倒的な層の厚さによって維持されているTVの芸道世界

そして、そのTVも長年その状況が続けられています。さんまは多分30代の頃から既に今のさんまだったでしょう。これが俳優であれば世代交代がききます。広末涼子がいかに絶大な人気を誇っていたからといって、今女子高生の役を当たり前にすることはないでしょう。それと同じで今竹内涼真が人気でも10年後にはやはりその時代のイケメンや美人俳優というものが出てきます。そして俳優であればひとつの作品の中で共存することも可能です。娘役が母に、母が祖母に、と変わっていけますし、親子三世代すべて20歳頃に絶大な人気を誇っていた女優を並べることも出来ます(吉永小百合宮沢りえ広瀬すず、みたいな家族?)。しかしお笑い、バラエティはそうはいきません。さんまは恐ろしいことに、未だに現役で実力によってトップを維持しています。そしてこれまた恐ろしいことに、お笑いはいくら世代が違っても潜在的にはさんまと横並びに評価されてしまうわけです(なんて恐ろしい!)。

 

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NONSTYLE石田が番組で話されていましたが、M-1を優勝して俺おもろい、と少し自信がついて東京行ったら、さんま紳助松本人志錚々たる大御所を前にして何も出来ず、あ、俺おもんない、と思って心底落ち込んだそうです。それを聞いていたMCの陣内も、よくわかる、俺もそうやった、と話されていました。これは当たり前や、といえると同時に、異常ともいえる環境かもしれません。世代交代しないし、しかも実力が衰えないのです。そして陣内もNONSTYLE石田も、間違いなく実力者のはずなのです。それなのにこてんぱんにされたように自分では感じるというのです。

 

実力の壁の前に立ち尽くす、新しい素人たち

こうした世界に、最早最初から芸人を目指して若い頃から芸を磨いてこなかった人には、軽々しく参入することなど出来ません。巨人師匠が言ったように学校が出来たから面白いやつが増えた、というのと別に、たとえ入っても活躍出来る可能性などよほどの腕であってすら非常に低いのです(そういえば大平サブロー・シローのサブロー師匠は引退後の紳助ともよく会っているらしく、今やったら俺ら売れてへんで、と紳助が言っていたとラジオで話されていたことがありました。紳助でもそんなこと思うのです。恐ろしい)。紳助はやめましたが、さんまもたけしもダウンタウンもそんな気配ありません。とんねるずは番組を失いましたが、ウッチャンナンチャンやヒロミはまだまだ新番組の司会として活躍しそうな予感がします。和牛みたいな絶品の漫才を毎年披露しても優勝は出来ず、同じお笑い芸人としてタレント活動をするにはTVは層が厚すぎるわけです。

 

となると和牛ほどの腕もなくタレント活動をしたい人は最早TVで活躍し、ましてや生き残っていくことなど不可能といっていいほどの、至難の技となっているような状況にも思えます。そうなると、既に確固たるものとして作り上げられている芸の世界=TVから切り離された世界でしか大きな脚光を浴びる活躍は出来なくなっていると判断してもおかしくありません。それがネットであり、ネットで可能なTV(もしくは放送/映像形態)としてのYouTubeかもしれません。

 

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新しい素人の時代 〜YouTuberの活躍

そしてそれはかつて素人の時代と吉本隆明が呼んだように、当時既に確固たるものとして存在していた師弟関係での芸道、修得に十余年の長年月と師匠の横暴に耐えながら芸を磨く、という世界から、そうした芸道と切り離されたTVの世界へと入っていった人たちと同じように、今ネット/YouTubeによって新たな素人の時代が訪れていると考えてみることも出来るのかもしれません。既に存在している芸の本道とかけ離れたところで、新たな素人が生まれ、そしてかつてと同じように新しい世代から支持されています。もしかしたら今のYouTuberはかつてのとんねるずと同じような存在なのかもしれません(そしてとんねるずをネットの人たちが嫌った理由は、もしかしたら同類の邪魔な先達として無自覚に嗅ぎ取った可能性というのもあって、実は世代交代だったりしないでしょうか)。しかしYouTubeに向かうことによって、少なくともさんまたち至芸の持ち主たちと横並びにされて必敗することからは免れることが出来ますし、TV離れを起こすことによってさんまたちが築いたTV的な芸道を視聴者から引き剥がし、YouTube的な芸道を本道のように思わせることも可能かもしれません。これは後々数十年先にわかることかと思います。

 

こうして実はネットやYouTubeというものは、かつてTVの黄金期と同じ状況にある可能性もあります。ただ違うのは、TV黄金時代はバブル期でもありました。TV番組を作るための制作費も天井知らずでしたが、YouTubeはそうはいきません。また広告費もTVはスポンサーとして個々の番組内容について把握しながらスポンサーにつけますが、YouTubeはそんなことありません。ですから漫画村みたいなところにも広告が出て大金が流れ込みます。しかしまず間違いなくそうした真似は広告主は嫌がるはずです。商品や会社のイメージが悪くなるからです(ネット記事を読む限りでは、広告主は漫画村に広告出してたことを知らなかったそうです。こうした態度を今後世論が糾弾しないとも限りません)。となるとYouTubeの炎上歓迎な態度は広告主から嫌われていく可能性もありますが、これらの制度がこれからどうなっていくかは未知数です。そしてそれがお金を出す方や社会通念に反しないようになるにつれて、ネットもまたTVのような他のマスメディアと同じように窮屈になっていく可能性もあります。もしかしたらYouTubeの持つ素人の時代は、こうした制度化が完備されるまでの短い花園なのかもしれませんね。

 

吉本隆明『ハイ・イメージ論』】 

 

なんだか長くなってとりとめのない、まとまりのないようなお話になってしまったかもしれませんね。今回はこの辺にしておくことにします。なんか長くなったなぁ〜。2、3回分書いてしまった。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/03/06/200001

 

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お話その179(No.0179)