日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

情報の蓄積する過去作品の引用から創作される新しい作品 ~オリジナリティがある作品=作家の近代的意味と歴史に刻むすでに書かれた膨大な作品/作家の蓄積

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前回のお話

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書くものの残されていない世界と、新しい表現の在り方 ~人の作品をひっぱってきて新しい作品を創る?

からっぽなものの表現について書いてきましたが、逆に具体的なものばかりで成り立っている表現とはどんなものでしょうか。

 

からっぽな作品と表現のタイプ

からっぽな表現とは、いわば構造(物語)や類型(キャラクター)によって形作られているようなものと考えられるかと思います。この話、どっかで読んだな、あれ、このキャラあの作品のアレじゃないの、とかいう感想を抱くものはまさにそういう作品ですね。そしてこれが単にパクったとか盗作であるとかとは別に表現の持つひとつの想像力のあり方のタイプであることは否定しずらいかと思います(模倣なしの創作はありえないわけですね)。

 

【プロップ『昔話の形態学』/東浩紀動物化するポストモダン』】

(上が物語、下がキャラクターについて書いてあるものだと思えばいいかと思います。プロップは昔話を分析して多様な類型を見つけようとしたのに、逆にたったひとつの類型に収束されてしまうことを発見しました。この観点から物語が構造の水準では類型的なものであることがわかります。また東浩紀はアニメキャラクターを分析して、過去の作品に登場したキャラクターを各要素に分解したうえで再構成したものが新しいキャラクターになることを示唆しました。こうした観点を組み合わされば構造/類型的な作品は多分いくらでも作れるのではないかと思います。面白いかはわかりませんが…)

 

 

 

エヴァとコラージュ

たとえばすっかり市民権を得たオタク作品ですが、これらは過去の作品の引用によって成り立っているという側面もあります。かの有名な『新世紀エヴァンゲリオン』も、監督である庵野秀明が触れ吸収してきた作品群のコラージュとしての側面もあるそうです。当時同世代の批評家であった宮台真司大塚英志は『エヴァ』の描く各々のイメージの元ネタは全部わかる、なんて言っていたかと思います。多分その通りなのでしょう(私は世代が違うので全然わからないけど、簡単なところで言えば『エヴァ』予告のレタリングが市川崑と一緒だったり、タイムボカンシリーズの三バカが『ナディア』で模倣されてたりするところなのかな)。

 

宮台真司『野獣系でいこう!!』】 

(宮台真司はどこでそんなこと言ってたんだったかなぁ。初期のインタビュー集のこの中でだったかな。ちょっと記憶があやふやです)

 

庵野秀明新世紀エヴァンゲリオン』『ふしぎの海のナディア』/『ヤッターマン』】
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第1話 エッフェル塔の少女

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ヤッターマン出動だコロン

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(比べてみると作品の面白さとは別の面白さがあるかもしれませんね)

 

 

誰が書いたか必ずしも明確ではない近代以前の作品たち

そしてこれはなにもオタク作品がそうだから、というだけではなく、近代表現の帰結としてそうなってくるという側面もあるのでした。というのも、近代以前は個人主義ではありませんので必ずしも作者と作品が一致して結ばれていたわけではありません。古すぎる例ですが『イーリアス』や『オデュッセイア』を創作したのはホメーロスですが、しかしこれら二作が本当にホメーロスという作者1人によって作られたのかはわからないそうです。シェイクスピアでも当時流行っていたスペインだかイタリアだかの戯曲を下敷きにして作品を書いてたそうですし、今のようにこの作品は俺の書いたもんだから真似するな、という確固たる線引きはさほどなかったそうです。むしろ面白かったら平気で真似たりしたわけですね(多分。そう読んだ覚えがある)。なんというか、むしろ今ならネットと似たような感覚だったのかもしれない、と想像してしまいます。

 

ホメーロスイリアス』『オデュッセイア』/シェイクスピア全集】 

(たしか各々の解説にそうしたことが書いてあったかと思います。ただ私が読んだのは他の訳です。検索しても出てこなかった)

 

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他にも文学ではありませんが、キリスト教の世界で天使の階級を決めた『天上位階論』というものを書いたディオニュシウス・アレオパギタという人がいるのですが、このディオニュシウスさん、聖書に出てくるパウロのお弟子さんだと思われていたのですね。ということはイエス直々の孫弟子になります。そのため大変この方の書いたものはキリスト教世界の中で権威があったのですが、それが中世末期になってまったく別人の手になるものが判明してしまったことがあります。しかも書いた当の本人は今もってはっきりとはわからないようで(そのため偽ディオニュシウスと呼ばれる)、どこの誰だかわからない人の書いたものが1000年にもわたって強烈に影響を与え続けていたこともあったのでした。

 

【中世思想原典集成 3】 

(なんとそんなディオニュシウスの書いたものも翻訳があるんですね。このくそ分厚いシリーズの中の第3巻に『天上位階論』を含む作品が3つほど入っています。どうもライブラリー版には入ってないようで、読むならこの版でないと無理な様子です。かなりハードル高そうです)

 

作品=作家の一致とその蓄積

それが近代になり作家と作品が間違いなく一致し結びつくようになって、それぞれの分野でそれぞれの作品が固有のものとして独立しました。その結果ある作品の類型はある作家のものとして明記されるようになります。なぜそうなるかといえば、簡単に真似て真似た方が大儲けをしてしまうからです。そのため著作権という概念によって作品の権利を守らなければならないそうで、作家と作品の固有性というものも意外と経済的な理由によるのかもしれませんね(これもよく知らないから間違ってるかも…)。

 

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ともかくそうなりますと、次々と新しい作品が新しい作家と共に生まれてくることになります。それどころか、そうした作品は記憶からは失われても、存在した事実は失われません(中世末期くらいまでなら散逸して無くなるらしい)。そのため作品とその表現の在り方はどんどん蓄積していきます。しかもそのそれぞれの表現はすべて誰かしらの作家と結びついています。後続する作家はみなそうした先行した作家と異なるオリジナリティを持たなければなりません。そうしないと真似っこ作家にしかならなくなるからです。

 

作品=作家の蓄積群と新しいもののオリジナリティ

しかし、それこそホメーロスから含めれば人類の表現は二千年以上続いていることになります。それもヨーロッパだけでなくアジア、アラブまで含めたならば、その範囲は膨大なものです。そうした表現の蓄積の中で真に新しいものなどあるのか。そうした疑問や異議申し立てが起こってきてもおかしくはないのでした。

 

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たとえば谷崎潤一郎ですら、若い頃の随筆に最早文芸に書くべきものは残されていない。だから自分は唯一まだ残されていると思える性愛=マゾヒズムを書く、と書いていたはずです。日本で一、二を争う文学者ですらそんなこと思うので、それから100年もたとうかという現代であればなおさらかと思えてきます。

 

谷崎潤一郎随筆集】 

(谷崎の意見がどこに書いてあったのか覚えていませんので、とりあえず手に取りやすそうなこの随筆集を載せておきます)

最早書くものはない 〜引用とサンプリングの新しい創作

そうした、最早書くものはすべて書かれた、という自覚のもと表現を行おうとした時、過去の作品からの影響を踏まえた上で引用したりサンプリングしたりすることによって新しい自分の作品としていこうとした側面もあるらしく、そのジャンル化がオタク作品なのかもしれません(というか、東浩紀が書いた分析にのっかってジャンルが自己規定しただけなのかもしれないけど。またそうしたサンプリングによる作品も『エヴァ』意外で傑作ってあるのかは知らない。『ガンダム』はいくら真似ても富野由悠季とは比較にならないと思う)

 

バロウズ裸のランチ』】 

(バロウズはヤク中作家なのですが、クスリの影響でまったく書けなくなっている中、既存の文章を切り貼りして新しい作品を書いたそうです。それがこの作品らしいのですが、こうして自分で一文字も書かずに創作してしまうのが逆に新しかったりするわけですね。なんとも難しい世界です)

 

あれ、また具体的なものによる作品の話に行きませんでした。また次回頑張ろうかと思います。

 

次回のお話

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お話その212(No.0212)