前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.06.24
からっぽな表現と日本 ~世界に届くのはからっぽだから?
からっぽでもない日本の漫画 〜手塚治虫など
からっぽなものは案外日本的な現象なのか、なんて書いてみましたが、かといってなんでもかんでも日本的なものはからっぽなのかといえば疑問も浮かびます。アニメ・漫画が世界的に受け入れられているとはいえ、その元祖である手塚治虫はからっぽな表現ではありませんしね。むしろ濃厚な表現で『きりひと讃歌』なんてフィクションの皮を被りながら差別者の姿を具体性に富んで書いているような気がします。
【手塚治虫『きりひと讃歌』】
(手塚治虫版『白い巨塔』みたいな作品。主人公は医学会の陰謀のため人体実験のようにして獣人化させられてしまうのだか、その容姿から厭われ、助けられたりしながら成長していく)
確信犯的なからっぽ作品 〜『DRAGON BALL』
かといって逆のものもありますね。たとえば『DRAGON BALL』の担当編集者だった鳥嶋和彦は人気の落ちかけていた『DRAGON BALL』を立て直すために『北斗の拳』を研究し、名言が多くて説教くさいので『DRAGON BALL』は真逆で徹底的に中身の無いものにしよう、と決めたそうです。だから学ぶものなどなにもない、なんていってましたが、う〜ん、そうかぁ、確信犯的にそんなこと考えて作品作ってたんだなぁ、と深々と首を垂れてしまいます。
【鳥山明『DRAGON BALL』】
(鳥山先生はどんなこと考えて描いてらっしゃったんでしょうね)
第212号『ドラゴンボールから学ぶことは一つも無い』|松山 洋 サイバーコネクトツー|note
(この間ブックマークの新着に載ってた)
からっぽな日本は今か昔か
こうして考えますと、日本の文化がからっぽなのだ、というのはひとつの観点としてありえるものの、もしかして世界的にヒットしはじめた日本のアニメ・漫画文化は、この時に指向された中身の無いものが世界化したものなのかもしれません。つまりこの場合は人気取りのための経済的な判断で決まっているのであって、別に歴史・文化的な理由にあるわけではないわけですね。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/09/190028
(なんか似たような話になってきたな…)
世界化される構造しかない作品
また日本を代表する思想家で文芸批評家の柄谷行人は、世界に届いている日本の作品は、すべて構造しかないものである、と指摘したそうです。この場合構造しかない、ということはからっぽである(=具体性が抹消されている)ことと同じことですが、これが別にアニメや漫画だけを指しているわけではないのが重要な点です。つまり日本文学でも同じことが起こっているわけですね。
日本文学の中の構造しかない作品
それは川端康成の『伊豆の踊子』や安部公房の『砂の女』などを指しているそうなのですが、そこに存在している登場人物は入れ替え可能な表現をされていて、その人物ではなければいけない必然性/具体性がないそうです(このような説明だったかは自信がない)。いわば文学なのに登場人物がキャラクター的なわけですね。のび太くんとドラえもんをアラジンとランプの魔人に変えてもほとんど物語構造は変わりませんが、これと同じで『伊豆の踊子』や『砂の女』も人物や物語の具体性よりも構造や類型が強いわけです。
【川端康成『伊豆の踊子』/安部公房『砂の女』】
【大塚英志『キャラクター小説の作り方』】
(たしかこの本の中に川端康成の『伊豆の踊子』を構造的に分析したものがあったかと思います。ただ私は最初に出た新書版しか読んでないので文庫版の内容はちゃんとは知りません。また柄谷行人の発言の引用もこの著者があちこちで書いてあります)
文学と構造と文体
なんとなくこういうと文学なのに、なんて思ってしまいますが、そもそも物語とはこういう構造を持っているものだ、というのがプロップから始まる構造主義や物語論の考え方だったと思います。そしてこうした考え方に対抗するために、文学は物語ではない、文学特有の在り方を模索して難解極まる文体表現へと化けていった側面もありますので、そうした批判や分析を求めないサブカルチャーでは、こうした構造上位の表現となっていてもおかしくありません(そしておそらくはこうした素朴な態度を捨てるとアニメ・漫画も文学の辿った道を辿ることになるとも思われる)。
【プロップ『昔話の形態学』/ジュネット『物語のディスクール』】
(民話を分析して多様性を探ろうとした結果、たったひとつの構造に還元できてしまったプロップの本と、そうした民話分析の結果を超長編小説にも応用してみたジュネットの本。プロップは図式的に説明してくれてわかりやすいけど、ジュネットはとても難しい。勘弁して)
【シクロフスキー『散文の理論』】
(文学における描写と文体、現実と虚構の関係を兼ね備えたような分析をしたもの。小説は自動化した現実から改めて現実への驚きを掴み直すものだとして、当たり前にある物をわざと描写の中で難しく描く。こうした異化作用により小説=虚構を通して再度現実を新しいものとして見直す役割を持つ、といったようなもの)
もうちょっと書こうと思っていたのですが、ここまで書いて休憩してしまったせいで何書こうか忘れてしまいました。長さもちょうどいいし、この辺りでやめることにします。
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.01
お話その211(No.0211)