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近代以前からの政治原理の移り変わり
こうした為政者のイメージ利用を政治家の責任にしておいてそれで済まされるかというと、そうはいきません。というのも、そうした態度は近代以前の考え方だからです。
為政者自身をつっつく 〜道徳
昔は政治家というのは文字通りの特権階級でした。日本ではお殿様とその下につくお武家様のやることで他の大多数の人たちは無関係でした。それはなにも日本だけではなくどこでもそうだったと思います(あんまり知らないんですけど…間違ってたらごめんなさい)。ではどうやってそうした政治家にいい政治をしてもらえばいいか、といいますと、道徳でつっつくのでした。つまり立派な天子はかくあるべし、といった形でお殿様を諫めるのです。
しかし実権はお殿様がもってますから最終的にはお殿様が勝ってしまいます。あんまり酷いと日本の場合、家臣たちが押し込めて血筋だけ残して政治の実際は自分たちでやってしまったらしいのですが、残念ながら私はちょっとそんなことを読んだ覚えがあるだけでよく知りません。ともかく、お殿様がいい政治をしてもらうように期待するだけでは問題も起こってくるわけですね。
人格より実力 〜マキャヴェリズム
お殿様が立派な人物であれば政治もよくなる、という考え方に反対したのが有名なマキャヴェリでした。マキャヴェリの考え方は、為政者は道徳家である必要はなく有能でさえあればいい、とでも言えるものでしょうか。つまり優秀で政治家として正しい選択が出来るのであれば人格は問わない(つまり別に悪人でもいい)、というわけです。これはこれで正しい考え方です。
というのも、とても立派な人格者ですけど、そのため判断したことがことごとくお人好しで悪い方向へいってばかり、ということはあるからです。政治とは違いますが、以前山形浩生は戦争中に身代金目的の誘拐があった時、その命を救おうと国際派の人権団体が素直に払って助けたことがあった、その結果その金を求めて誘拐ビジネスがその場で盛んになった、という話を披露していたことがあります。これと一緒で確かに態度としては立派なんだけど、社会の混乱をより増してしまうこともあるわけです。悲しい事実ですね。
人の手による政治 〜民主主義と選挙
しかし人格者ではないけど優秀な政治家が、長く政治の実権を持ち続けていたら自分勝手になることもあるかと思います。長いこといると政治腐敗が起こるのは仕方ないことなのかもしれませんね。ですから公官庁ではしょっちゅう移動させるのかもしれませんが、官僚とは別に政治家も同じことが言えます。
そこで政治家もちゃんとその都度選ぶべきだ、というわけで選挙も現れてきて(このへん特によく知らない。申し訳ない)優秀な人やあんまり酷い人格の人を選ばないようにしていったのかもしれません。
こうした考え方には政治は人の手で行うものだ、という前提があるようです。ヨーロッパの王様や中国の皇帝は神や天から人の世を治める権利をもらったように考えるやり方もありますが、それを乗り越えられているわけです。そうじゃなくてみんなのことはみんなで決めよう、という形で政治を行なっていこうとするわけですね。
みんなの意見 〜社会契約
そしてここでもう一つやっかいなみんなのことを決める、みんなの意見というものが現れてきます。これを考えたのがルソーという哲学者で、社会には個人の意思と全体の意思があって、社会を運営していくためには個人の意思は全体の意思に委ねなければならない、としてそれを社会契約として定めました。
いわばみんなは本音を持ってるけど、それを表には出さずにみんなの意思としての建前をちゃんと作ろう、ということでもあるでしょうか。ですから建前を建前として馬鹿にして、本音が正しいと捉えてしまうと社会の運営は上手くいないことになるかもしれません。怖いですね。あまり本音、本音と言って、本音で語ればいいと思うのは近代社会のやり方としては間違っている可能性もあります。それは個人間のやりとりであって、社会運営のやり方じゃないんでしょうね。
そのため決定された政治家の行動は、個人的な意思以上の全体的な意思の結果だとみなされ、最終的には国民の決定(または責任)とみなされるのかもしれませんね。それを決定として決まっていながらも異議申し立てをしようと思ったらデモになるわけで、デモがどうして民主主義において認められ必要とされるかも少しわかってくる気もします。全体的な意思に対する異議申し立てなんですね。
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気になったら読んで欲しい本
丸山眞男『日本政治思想史研究』
日本の政治思想をヨーロッパのものとくらべて、道徳でおこなうわけでも、天に与えられたわけでもなく、人の手で、独立した領域の問題として政治を扱うことは自力で培ってきたが、唯一社会契約だけが自分たちで生み出すことが出来なかった、と書いていたかと思います。
この辺り、建前ばかり言うとらんと本音で言いなはれ、といって正しいと思ってしまう現在の在り方と結びつくような気がしますね。いや、社会を運営していくためには社会契約=建前こそみんなで作って守っていくもんなんだよ、という観点が日本では生まれていないので、根付いてもいなければ守られてもいないということになるのかもしれませんね。悲しい話です。
マキャヴェリ『君主論』
マキャヴェリの本。読むと結構面白く、ビジネス書みたいに読んでもいいんじゃないんでしょうか。実際どこかの経営者がそんなこと書いてたような覚えもあります。政治の本というより、具体的な人間関係の中でどうやって決定したり行動したりすればいいのかを考えるのに読んでみると面白く読める気もします。結構本文は短いので読みやすいですしね。
ルソー『社会契約論』
ルソーの本。だいぶん前に読んだんで忘れてます。たしか個々人の意見である特殊意思に対し全体の意見である一般意思を導き出しそれに従って守るべきである、といった印象があります。私の説明はちょっと心許ないので気になったら読んでくだされば幸いです。
山形浩生『要するに』
戦争中の誘拐ビジネスの話はたしかこの本に出ていたかと思います。善意の背理といったところでしょうか。関係ありませんが山形浩生は有名な翻訳者で、数年前一世を風靡したピケティの本も翻訳していました。そのため当時あちこちのTV番組に引っ張り出されていて画面でよく顔を見ました。珍しいことですね。あとはてなブログされているようで、よくはてなブログのおすすめの記事(になるのかな?)に載っています。
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