前回のお話
物事の捉え方を変えることが難しいように自分の見方に縛られる ~自分の観点の固定化と、状態や関係性と共に変化する見方、ひとつの対象に対する複数の見方
人間の精神をグラスとそそがれるコーラのように喩えて考えてきてみましたが、グラスがそれぞれわかれていて中身が混じり合わないこと、そそがれるコーラがたとえ同じペッドボトルからそれぞれのグラスに入っていてもたったひとつのペットボトルからそそがれているわけではないこと、またそそがれるコーラやペットボトルの種類や数は無数にありそそがれた後のグラスの中身が他と一致することはありえないこと、そしてそのように様々な領域からそそがれたものはひとつのグラスの中で混ざり合ってしまっていてそれがひとつの総合体になっていること、などを書いてきてみたかと思います。なんともめんどくさい言いようですね。
私たちは同じものを同じように捉えるのか
それでもうひとつだけ言うならば、同じペットボトルであってもそれが私たちひとりひとりにとって同じコーラとしてそそがれているのかは、実は疑問なところもあるかもしれない、とでも書いてみたいと思います。
状態によって受け取り方が変わる
なんだそりゃ、コーラはコーラだ、と思うのですが、当たり前のことですがお腹がいっぱいの時と喉が乾いてる時では飲み心地というものが違いますよね。それは同じものであっても受け手の状態によって対象となるものの意味が変わってくるからです。
簡単な例ですと、好きで好きでたまらなかった恋人がいても、浮気されて別れちゃったら大っ嫌いになるかと思います。またなにか大好きな作品やアイドルがいたとして、寝ても覚めてもそのことばかり考えていたのに、その当の本人やファンクラブなどで死ぬほど嫌な目に遭うことによって作品やアイドルまで見たくなくなることもあるかもしれません(前そんなこと匿名で書いてあったの目にした覚えが)。
関係性の変化にともなう受け取り方の変化
これはコーラの味が変わって感じるというわけではなく、お互いの関係性が変わってしまったから感じ取られるものまで変化してしまったわけですね。浮気の場合は共に変わっていますが、嫌なファンに遭遇することによって作品を嫌いになってしまった場合などであれば相手はなにも変わっていません。しかし今までは〝私→作品〟という関係であったものが〝私→作品←ファン〟というものになり〝私↔︎ファン〟といった関係性が増えてしまったことにより〝私→作品〟の関係性が飲み込まれてしまったわけですね。
ひとつのリンゴに対する複数の見方
また以前にもhttps://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/09/193032で似たことを書いた気もするのですが、同じものに対して私とあなたが同じように受け取るという保証はどこにもありません。リンゴを見てリンゴについて知ることは経験論からいって誰もが行う人間の基本機能かもしれませんが、そのリンゴのどこに注目して理解するかということは個体差のある現象かもしれません。私はリンゴを見ても美味しいのかな、としか思わないかと思いますが、画家ならば色や形に注目するでしょうし、農家ならその出来具合をすぐ判断するでしょうし、逆に料理人ならどんな調理法が適しているのかいくつも選択肢が浮かんでくるかもしれませんし、商売人であればどこで仕入れて流通しいくらで売るかということがすぐ算盤勘定出来るかもしれません。
しかしそのひとつふたつを同時に持つことはもしかしたら可能かもしれませんが、こうしたあらゆる判断をひとりの人間に持つことは多分不可能でしょう。人は画家であり農家であり料理人であり商売人であることは可能ですが、画家でもあり農家でもあり料理人でもあり商売人でもあることはまず無理かと思います。そんな人はきっと現代では中途半端な人になってしまう気がします(分業のはてに細分化された専門家の世界に私たちは生きているとでもいえばいいのでしょうか?)。
【小林秀雄初期文芸論集】
(この話になるといつもこの本ですが、小林秀雄は自分はああもなれた、こうもなれた、しかし今のようにしかなっていない、それをひきうけるのが宿命だ、というような事を言ったことがあるのですが、それは結局人は自分以外にはなれない、ということなんだと思います。それを引き受けたうえで空想的に浮かんでくる選択肢の中からいかに自分を賭けて選び進んでいくか、ということが人生なのかもしれませんね。おぉ、なんか深いっぽい話になった)
どのようなものも自分の観点からしか理解出来ない
つまりたとえ同じものであったとしても、それを受け取ることが可能なのはこの私の観点からしか不可能だ、ということです。そのためどれだけ優れた観点を持って自分の外のものを捉えてみたくても、それは自分を変えていくことによってしか得られるものではありません。リンゴを色によって捉えられるようになるためには画家の持つ修練を自分でも行わなければいけないわけです。そうすることによってリンゴから赤い色を特別な形で捉えることが可能になるのであり、自分の外の世界に対してより繊細な理解をすることが出来るようになります。
【バークリー『人知原理論』】
(哲学史では大抵ロック先生の次に位置されるイギリス経験論の哲学者なのですが、こいつがなんともけったいな哲学で読んでて面白いのでした。とはいえもちろん私にはよくわかってないのですが、なんといいますか、ひとりひとりが自分の認識世界をヤドカリのように背負って生きており、個人個人の認識世界はちっとも重なり合ったりしないような、そんな世界観を見せてくれるのでした。じゃあなんで私たちはお互いに理解しているようなことが出来るのか、といえば、バークリー先生はお坊さんらしく神の御業のように説明してくれていたような気がします。違ったかな? ともかく哲学書としては珍しく短く面白い変な本です。
…って、今見たらちくま学芸文庫版なんて出てる。びっくり)
こうしたことはいくら外から同じペットボトルでコーラをそそがれるとしても、それだけではなんともなりません。人が都合のいいコーラをそそいでくれるのを待っているだけでは街でスカウトされて芸能デビューするのと同じくらい困難なことかもしれません。そのため自分から外のものを捉えたり理解したりしなければならない羽目になり面倒くさくて大変な真似をしなくちゃいけなくなるのでした。
そしてそれは結局自分という存在からは逃れられない、ということでもあり、私とあなたが同じであるという集団主義的な観点より個人主義的な観点になっていくのかもしれませんが、これがなくなるとやっぱり頭抜けて優れた人も生まれにくくなるんじゃないかなぁ、とも思わないでもないのですが、実際どうなんでしょうね。
【デカルト『方法序説』】
(そしてこうした自分の観点からしか自分の外も捉えることが出来ない、というのはデカルトの自我の発見によるのだと思います。すべてのものを疑って残された疑っているこの私、というものは、疑う対象である世界そのものもこの私によって捉えられるということも含まれていると思われますからね。それが当たってるのかは私のいうことよりデカルト先生のいうことを直接目にして欲しいのですが、こうした認識がなければ私たちの捉え方も変わっているかもしれません。そしてこれからこうした考え方を放棄していくと、私たちの捉え方もまた全然違ってしまうのかもしれませんね)
次回のお話
オリジナリティは何か、という同じ精神の形成過程をへる個人としての問題 ~みんな同じ人間精神のメカニズムと具体的な個別性 - 日々是〆〆吟味
お話その233(No.0233)