日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

他者の主観的認識と断絶と共有により見える人の姿 ~別存在としての私とあなたと私の主観的な像としてのあなたの姿

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前回のお話

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あなたは私に見えるひとつの姿だけど… 〜他者の主観的認識と断絶と共有

探究(1) (講談社学術文庫)

探究(1) (講談社学術文庫)

  • 作者:柄谷 行人
  • 発売日: 1992/03/05
  • メディア: 文庫
 

別存在としての私とあなた

根本的に捉えれば私とあなたという関係は、必ず別の存在としてあるはずです。同じものを見ても同じように感じるとは限りませんし、同じ作品を見ても同じ感想を持つとは限りません(こんな対立はよくあるよね)。そもそも人間には精神とか内面といったものがありますが、それを直接知ることが出来るのも自分自身のもの以外にはありません。他人がどう考えていたり感じていたりするのかは、実のところフィクションを通して学んだ考え方/感じ方を延長させて理解している可能性もあります。

 

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あなたは私の主観的な像

この場合他人がどう感じているか、ということは、直接その人から伝えられるものではありません。そうではなくこの私によってストックされた認識材料を通して理解しているのであり、最終的には主観的なものを超えることはないことになります。そしてそれゆえに相手のことを理解できるのか否かはこのストック=経験や教養というものによって判断の水準が変わってくるのであり、この私にとって判断可能な材料がなければ相手のことはすでにある判断可能な材料の中で理解してしまうわけです。こうして相手のことを構造/類型的に理解してそのままに受け取ることが出来なくなってしまうわけですね。

 

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https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.24

 

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しかしそもそも私とあなたの関係が直接的にはつながらないのだとすれば、どれほど密接な関係になろうと相手のことを自分のように知ることなど不可能ということになります。となると他人というものはこの私にとって理解出来る範囲でしか知ることの出来ない存在になってしまうかもしれません。つまりこの私にとってストックされた人物像のどれかにあてはめられて理解されるだけの存在、ってことになってしまいますね。

 

あなたは私の思う姿のままではいられない

ですがそれだけでいいのか、といえばそうではありません。他人と私は違う存在ですが、だからといってこちらの好き勝手に理解してすませられるわけでもないのです。たとえ私とあなたは違う存在であっても同じ人間である、という態度まで捨ててしまっては様々問題が出てきてしまいます。

 

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それはアリストテレスギリシア人以外は野蛮人で獣と人間の間にある存在だから奴隷にして当たり前であったり、同じように黒人や新大陸人、未開人は獣みたいなもんだから奴隷にしても平気でいたり、アウシュビッツユダヤ人を虐殺出来たりしてしまうことにつながっていきかねません。なにもそんな大仰にかまえた歴史的な大事件でなくとも、相手が嫌がっているのかどうかを主観的にだけ把握して好意があると思えばストーカーになってしまうかもしれません。他者性というものの中に、相手との違いだけやこちら側からの判断だけで終えてしまうとしたら、相手の存在までもがモノ扱いになってしまいかねないという困った問題もあるようなのでした。

 

アリストテレス政治学』/山川偉也『哲学者ディオゲネス』/ラス・カサス『インディオは人間か』/ルドルフ・ヘスアウシュビッツ収容所』】 

(それぞれの歴史的時間の当事者たちの理解が直接読めるものが結構ありますね。私は読んだものもありますし読んでないものもあります。でも日本語でちゃんと読める環境があるのですからすごいですね)

 

あれー、なに書いてるのか自分でもわからなくなってきた。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/224/2020.08.11

 

 

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 お話その222(No.0222)