前回のお話
論理の限界と具体的体験の複雑さとの解離と論理的正当性とエゴイズムの関係性
辛い体験のように、どうしても自分の中で忘れ難い問題などを抱え込んでしまうとその問題について考えてしまうことになるかと思います。
具体的かつ複雑な体験と、論理による単純化した理解
しかし同時にそうした問題は論理的に説明してしまえば実に簡素でつまらないものになってしまうかもしれません。大切な人が亡くなってしまったとしても、人間いつかは死ぬものだ、というようなことは、たしかに論理的に間違っていないのですがなにかを説明したわけではありません。ましてや人に対する慰めにはなりません。もちろん人が亡くなってこうしたことを言う人はまずいないでしょうが、大切なペットが亡くなったり、大切にしていたアクセサリーが壊れたりした時…と、段々段階を落としていくと、そのうち似たようなことは言っているかもしれません。それも悪意なく慰めるために言っていたりもするのかもしれませんが、それが実のところ真逆の発言である可能性もあります(発言者は気づかないからいいことしたと思うかもしれないけどね)。
論理と無神経
そのため、実は論理的な人というのは無神経な人である可能性もあります。それは本来論理から溢れてしまう出来事だったり、論理的であること自体が問題を単純化している可能性もあるからです。
【渡辺淳一『鈍感力』】
(読んでないけど、こんな本もありました。これは逆に言えば敏感な人へのメッセージなのかもしれませんけどね)
そういえば宮台真司は若い頃、自分は論理的だと言われてるけど、それは自分が論理というものを信じてないからだ、と述べていた覚えがありますが、それはこうしたことを踏まえてのことだったのかもしれません(もちろん宮台はウルトラエリートですから、カントの『純粋理性批判』を踏まえての発言だったのかもしれませんけどね)。論理というものはどうしても物事の一面しか捉えられないということなのかもしれませんね。
【宮台真司『ダイアローグズ』】
(宮台がどこでそう言ってたのか忘れてしまったので、対談集でも載せておきます。関係ありませんが、一番最初の対談相手はまだ学生時代の広末涼子だったりします。なんでやねん)
論理的正当性とエゴイズム
そのため論理的に正しい人というのは一見クールでスタイリッシュ(死語だろうか?)に見えるかもしれませんが、実のところ自分の意見しか存在しないエゴイストであるのかもしれません。論理というものは相対立する意見であっても正しく説明することが可能です(カントがそう示しました)。そのため自分がこうだと思ったことを単に論理的に説明して押し倒しているだけの人を、世の中は論理的な人物だと思っているかもしれません。しかしそれはおそらく誤解であり、間違いです。
この場合、まずあるのは自分自身の中に現れる感覚です。それは単なる衝動や感情と言い換えてもいいのかもしれません。そしてそうして現れてきたものは、自分に現れてきたものである限り自分のものです。そして自分の感覚(つまり未だ言語化されていない)である以上自分にとっては正しいと感じられるかもしれません。それを言語化して論理的に説明することによって自分の意見を押し倒すのです。
感覚の独立性と論理の対立と他者への寛容
もちろんこの段階は必要不可欠です。自分の中に生まれてきた言葉にできない感覚を言葉にすることは物事を認識する上で絶対に抜かしてはならない過程です。しかしそれは未だ自分だけの正しさです。他人も自分と同じように感じるとは限りません。そして自分の正しさを論理的正当性によって主張するにしても、他人もまた同じ権利で正しさは主張出来るのです。
ここで問題となるのは論理の対立です。しかしカントによればこうした対立は経験的な支えがなければ決着がつくことはありません。カントは論理だけの戦いにおいて、神の前の法廷で永遠に戦い続ける、みたいなことを述べていたような気もします(ちょっと違ってかなぁ)。そうなると論理同士の戦いは不毛になってしまいます。となれば相手の非論理的なところをつついて自分の正当性を主張した者の勝ちとなってしまいますね。そしてそれは論理の段階では決まらないかもしれませんから、周りの人々が決めてしまうことになりかねず、結局自己演出の上手い人が勝ってしまうかもしれません(古代ローマ時代の名演説家であったデモステネスは、演説のコツはなにより身振り、と述べたとか。どこかで読んだ覚えが)。こうなってくると正しいかどうかを決める論争もショーと似てくるのかもしれません。
【デモステネス『弁論集』】
(なんとまぁ、こんな古代の弁論集まで翻訳があります。それも6巻もあるというのですからすごいですね。このシリーズ大昔のギリシア・ローマの珍しい古典まで完訳を目指していてすさまじいものがあります)
こうした不毛さを逃れるためには、やはり柄谷行人のいう他者ということが大切になってくるのかもしれませんが、それは論理の正当性という問題よりもその人の寛容さに関わってくることになってしまいます。しかしそれで物事はうまくきれいにまとまっていくのかは、また別の問題なのかもしれませんね。悲しいお話です。
【柄谷行人『探究』】
(柄谷行人のいう他者とは自分と異なる規則によって生きている人間のようなものと理解すればいいかと思いますが、それは同時に自分と違う存在に対する理解を求める態度が含まれているとも考えられますので、寛容ということともつながるかと思います)
次回のお話
アリストテレスの時点で相当の完成を達していた道具としての論理学=オルガノンと、現在まで残るアリストテレスの著作における数奇な運命の経緯 - 日々是〆〆吟味
お話その247(No.0247)