前回のお話
個人主義と他人の迷惑 ~私の自由はあなたの自由を守ります
違うあなたと私と、人間みな同じ
このように私とあなたはその感じとられ方において決定的に違う存在であるかのように受け取られます。しかしこれと逆の考え方も不可能ではありません。俺とお前は同期の櫻、人間一皮むけばみな同じ、国境は人が引いた線に過ぎない、などなど、ちょっと昔によく耳にしそうな言葉も色々ありますね。
これらはどちらかといえば前近代の価値観を引いていたり、また近代の政治的対立を批判する形で出てきた言葉であるかもしれませんので、ちょっと個人主義に対する集団主義とは違うかもしれません。むしろすでにあり動かすことの出来ないほどの考え方や存在に批判の矢を向けているようなものかと思います。また同時に普遍的な問題を指摘している面もあるでしょうから一筋縄ではいかない考え方かもしれませんね。
【作田啓一『個人主義の運命』】
個人主義と普遍主義
ですが、一応こうした考え方はあまり個人主義的なものではないような気がします。むしろ普遍主義的な態度というものになるのでしょうか。集団のような自分の属する世界を越えて、もっと全部をひっくるめたような世界を相手にした普遍的な態度を求めているのかもしれません。
(昔宗教を例にして似たようなことを説明したことがあります)
他人への迷惑と個人主義
一方個人主義ではない集団主義となれば、自分の属している世界の価値観に従うことをよしとするものでしょうか。案外そこらへんでもよくある考え方かもしれませんね。人のこと考えろ、とか、他人の迷惑になるな、とかでしょうか。
しかし、なら個人主義は他人の迷惑を無視するのかといえばそんなことはないでしょう。それは個人を確立するという態度の個人主義ではなく、自分さえよければ他はなんでもいいというエゴイズムというものかと思います(でも言葉だけだと漢字かカナかの違いだけに見えてきてしまいますね)。
【ブルーム『反共感論』】
(こんな本もあるんですね。面白そうなので載せてしまいました)
迷惑でなければ放っておけ? 〜自分の自由を守るためには他人の自由もまた守る
個人主義の場合であれば自分が自由であるように、他人もまた自由であることを認めなければなりませんが、かといってどこまででも許していいわけでもありません。泥棒されても許す必要もないですからね。そこまで求めるとしたら宗教的境地が必要な気がしてきます。
となるとどのあたりを線引きするかといえば、私の自由を奪わない限りにおいて、他人の自由は認める、ということになるのかもしれません。そのうえで個人と個人が協力したりすることを連帯と呼べば、集団は連隊によって成り立つ、と個人主義の側からすれば考えられるかもしれませんね。
【ミル『自由論』/ヴォルテール『寛容論』】
(自由論の古典ですが、私はまだ読めていません。なんてこった! そしてもう一つはもっと古い哲学者による、他人への寛容を説いたもの。当時も不寛容に人をやり玉にしてたそうです。けどこっちも未読! わ〜ん、今回もまた読んでない本ばかりだ!)
それに対して集団主義であればきっと、その集団の中にあるひとりひとりが集団の価値観や考え方に従うことによって在り方まで決めてしまうことになるでしょうか。
なんだかまたややこしい考えになってきました。自分でもなに書いてんのかよくわかりません。なんか当たり前のこと書いてるだけのような気もしてきました。どうも最近調子が悪いですね…それでももうちょっと頑張って続けて書いてみたいと思います。
次回のお話
お話その223(No.0223)