前回のお話
当たり前の認識を持つ人間と死の自覚による生
死を通してなされる限られた存在であることの自覚
死を自覚することによって人間が人間として生まれる、といったようなことを言ったような気がするハイデガー先生ですが、そんなことをすれば精神病になっちゃいそうな気もします。なんでそんなことが人間にとって大切なことになるのでしょうか。
【ハイデガー『存在と時間』】
それは死というものと直面することによって、その人自身が自分自身を含めた人間というものが限られた存在であることを自覚することになるからです。
なんでそんなことしなくちゃいけないんでしょうか。別にふわふわ生きてたってよさそうなもんですけどね。
しかしそうした生き方は自らの存在を自覚していない生き方であり、人間というより動物みたいなもんだ、というようなことを言ってたような気がします(全然違うかも…)。
【コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』】
(この本の中で人間はアメリカ式の資本主義に飼い慣らされた動物か、日本式のスノビズムになるかしかない、なんて書いてあったかと思います。それも本文じゃなくて、戦後に日本を訪れた後に書いた注にあったりします。それにしても表紙のヘーゲル先生の顔、イカツイですね)
与えられた当たり前
人間というものが外部から認識の材料や方法を得ているらしいことはイギリス経験論からカントの哲学に至る道のりで明らかにされてきたかと思うのですが、それはなにも感覚的領域にだけとは限りません。つまり目の前のリンゴを見る(=感覚)ことにより、精神にリンゴの観念を持つ、というだけでなく、価値観の類でも同じことが起こると思われます。それはデュルケームが集合表象によって人間の認識が作られる、といったようなことを言った(と思う)ことと似たようなことかと思います。
【ロック『人間知性論』,カント『純粋理性批判』,デュルケーム『宗教的生活の原初形態』】
(関係しそうなのを並べてみました)
そしてそうした認識は人間がいつのまにか常識として持っている当たり前の認識です。フランシス・ベーコンは四つのイドラとして疑うもののひとつに知らず知らずのうちに得ている常識を挙げていたかと思いますし、デカルトもあらゆる疑うべきものとして自分の持っている今までの価値観をあげていたような気がします。
【フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』】
(ベーコンの4つのイドラについてはこの本に書いてあったかな。よかったらどこかで見かけたらぺらぺらとでもめくってみてください)
こうした当たり前の認識は私たちが誰しも持っているものですね。子供の頃から自分ですべて考えて判断するなんてことは不可能です。だってお箸の使い方だって教えてもらわないとわからないわけで、まず当たり前とみなされるものを親や先生に教えてもらうところから始めるわけです。しかしそれは同時にある種の偏った認識も呑み込んでしまっていることにもなります。
当たり前を見直す死の自覚
そして死を自覚するということは、こうした当たり前と思ってきた様々な世間的な価値観というものを最も根源的なところでひっくり返されてしまうことにもなります。なぜならそうして当たり前と思われてきたものが、そのどれもが死ねば無価値であることを意識せざるをえないからです。
そうすることによって人間は自分自身の存在が限定されたものでしかなく、なにか自主的に選択して生きていくしかないことを自覚していくことになります。こうすることによって人間存在は主体的な存在として新たに生き直していく、ということなのかもしれません。
でもそう考えるとハイデガー先生の言うことは中々厳しいことのようにも思えますね(全然違うかもしれないけど…)。
次回のお話
お話その286(No.0286)