前回のお話
時間的存在における無限と有限の在り方
生きるための死という限定の自覚
人間は死ぬ存在である。だからこそ自分の人生を生きるためには死までの限定された時間的存在であることを自覚することによってようやく人間は自主的に生きていく。なんとなくハイデガー先生はそんなこと仰ってるような気もしてきますね。
【ハイデガー『存在と時間』】
しかしハイデガー先生はとてと偉い哲学者ですから、こんな俗っぽいことだけでは済まないかと思うのですが、あんまり難しくて私にはこんな程度でしか説明出来ません。ただちょっと似たようなことをヘーゲル先生も書いてたような気がするので、もう一回自分なりのおさらいをこめて書いてみたいと思います。
無限の可能性としての人間の最初の状態
ヘーゲルは人間を無限なものと有限なものとの重なり合いのようにして捉えていたかと思います。人間はまず何者でもないのであり、そのため何者にでもなれる。これは可能性として無限なものとして存在しているわけですね。
限定された有限なものとしての人間
しかしいくら可能性が無限なものであったとしても、何もせずに人生を過ごしていっては何者でもないままに死んでしまいます。となると人間はまず無限で可能性として何者になれるとしても、実際に自分の人生を生きる時には特定の何かである何者かになるしかありません。この時人間は無限な可能性を持つ者としての無限なものから、特定の何かをする何者かに変化することになります。言ってみれば無限の可能性を捨てて有限な何かを選んでなるわけです。
有限なものを繰り返す無限な存在としての人間
しかしそうした有限なものになったとしても、また人間は新たな別の有限なものを獲得しようとすることが出来ます。何者かになった後にも別の何かを得ることは出来るわけです。そのため無限な可能性を持つものとして存在していた人間は、ある特定の有限なものになりますが、再度有限なものを獲得しようとして、結果それを繰り返すことの出来る無限な存在としてある、というわけです。
【ヘーゲル『精神現象学』】
(ヘーゲルの話はこの本の中に書いてあったかと思います。多分この上巻の中に入ってたんじゃないかな)
たとえばサラリーマン(今はビジネスパーソンって呼ぶのかな)になったとしても、そこである技能を得て独立することが出来ますし、ピアノを習ってコンクールで優勝しても、またバイオリン習って頑張ってもいいわけですね。
時間的存在の中の無限と有限
こうしたヘーゲルの考え方は、無限と有限というもので考えられていますが、それもハイデガーの言うような自分の人生の中でしか起こってきようがありません。そしてヘーゲルの言うような有限なものも自分の人生の中で選んで決定していかなければならないのですが、その契機として自らの死を自覚する、つまり絶対的な有限的存在であることを自覚することによって、人生の中で有限なものを繰り返す無限な存在である人間になれる、ということかもしれません。
なんだかハイデガーとヘーゲルを無理矢理結びつけて書いたような気がして疲れてしまいました。
次回のお話
お話その287(No.0287)