日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

科学的根拠とは、科学的根拠に基づく認識とは何か。科学的根拠がないと指摘された空気を読む現象を例にして:自然科学における科学的根拠と、人文・社会科学 ~観察・実験・再現性から仮説、反証可能性、そして抽出された法則の数学化という自然科学と、未だ数学化にムラがあるも問題解決へと向かう人文・社会科学

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元となるお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/19/190011

 

以前沢尻エリカについて書いてみました(随分前)。時々的な話題でしたので様々なコメントがブックマークにつけられたのですが、その中に空気を読むというけれど、大抵は日本人は空気を読む民族だ、という空気を読んで言っているだけで、科学的根拠はないし、こうした日本人特別論こそが外国人差別につなかってるのでは、という意見がありました。

 

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これは非常に重要な問題を含んでいると思われます。この問題について考えてみることは私なりに裨益することが十分あると思われますので、ちょっと取り上げさせてもらって考えてみたいと思います。最初は追記として書き足そうかと思ったのですが、長くなるかと思い今回別に書くことにしました(そして実際長くなり、しかもこれから一週間続くくらい長くなってしまいました)。

 

空気を読むことの科学的根拠 〜自然科学における科学的根拠と、人文・社会科学

まず空気を読むということに科学的根拠はない、という話から始めたいと思います。

 

丸山眞男の世界的評価

科学的根拠というものをどのように捉えるか、ということですが、この場合自然科学的根拠、ということを指すと思われます。というのも空気を読むということは丸山眞男政治学の中で書いたものであり、しかもこの論書は当時日本社会学界の最高傑作、と世界的に評価されたといいます。少なくとも政治学という社会科学の中では国際的な場で評価されたものです。ミッシェル・フーコーという20世紀後半を代表する哲学者はわざわざ丸山眞男に会いにまで来たそうですし、ものすごい人だった、と述懐したそうです。政治学というアカデミズムの中で国際的に評価されたのだから非科学的だとは言えません。単に日本というタコツボの中で評価されたわけではなく、小林秀雄吉本隆明のような偉いけど海外でそう知られていない文芸批評家とも違うのです。しかしそれに対してもこの場合科学的根拠があるとはみなしていないかと思います。なぜならばそれは科学の中の科学である、自然科学的水準を満たしていないと思われているからです。

 

科学的根拠とはどのようなものだろうか

科学的根拠その1 〜観察・実験・再現性、そして仮説と法則

では自然科学的な科学的根拠とはどのようなものでしょうか。これにもいくつか段階があるようです。まず19世紀的な科学では、観察・実験・再現性が不可欠です。まず観察して仮説を立て、次いでそれに従って実験をし、現れた結果が繰り返し得られると、それは正しいとみなされるわけです。こうして行われた研究の中で一定の法則を取り出して、それが科学的真理となるわけですね。

 

自然科学的手法の人文・社会科学への適用と挫折

しかし20世紀的な科学ではそれですまなくなってきたようです。19世紀的な手法で得られる範囲はそのままでかまわないのですが、科学の範疇が広がり適応範囲も増えます。自然科学の成功が素晴らしかったので、自然科学以外の人文・社会科学でも同じような手法を取り入れて明晰な科学にしようと学問の全領域(といってもいいと思う)で行われたようです。しかしうまくいきませんでした。

 

たとえば丸山眞男の弟子でもあった小室直樹という社会学者がいます。最初数学を学び、経済学に転向してからアメリカで諸学を学んで帰ってきたという異才の持ち主です。社会科学全般に通じていますが、その最初の出発点は数字でした。その小室直樹が社会科学における数学化は経済学以外ではほとんど出来ていない、と判断しています。なんでも自然科学があって、そこからだいぶ落ちて経済学があり、さらにだいぶ落ちて社会学があり、もっと落ちてどん底政治学がある、という話です。

 

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そして自然科学が自然科学たる理由の大きな点は数学化にあります。19世紀的科学の手法によって一定の法則が取り出されるとしたら、それは数学によって表現されることが可能だからです。そして数学化されることによって取り出された法則は、法則そのままとして他分野に応用可能です。ニュートンの物理学があれば飛行機は飛ばせるわけですね。

 

ですがこうした数学的な科学的手法は自然科学以外ではうまくいきませんでした。今もそのようです。

 

科学的根拠その2 〜反証可能性

そこでカール・ポパーという科学哲学者が科学の根拠として反証可能性をあげました。それは科学が観察・実験・再現性にあるとすれば、まずそうした検証をするために必要となる仮説を取り上げて、この仮説が他の観察や実験によって反証(つまり間違っているとか異論を言える)出来なければならない、としました。ポパーが念頭にあげているのはマルクス主義精神分析のようですが、これらはこうした反証可能性を満たしていないから科学ではない、というわけです(ただ私はポパーを読んでいません)。

 

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たしかにマルクス主義精神分析は確かめようのない問題でもあります。とはいえどちらも範囲が広すぎますから開祖のマルクスフロイトに限って考えてみますと、マルクスが資本主義の発展が共産主義の必然である、とか、フロイトが患者相手に行った精神分析内容が正しいのかどうか、は他の何かと比較して確かめることは出来ません。資本主義の先行きは実験出来ませんし、精神分析家の解釈はその精神分析家のもの(多分)ですから異論のたてようがありません。ですからマルクス主義精神分析が科学ではないということはポパーの観点からすれば妥当であると言えるかもしれません。

 

しかしポパーの観点は観点として、自然科学的な水準で成り立っている科学は小室直樹の言う通りなら人文・社会科学ではほとんどありません。ではどうやって科学であるのか、ということが問題ですが、門外漢の私には断言することなど出来ませんが、おそらく今もって問題のままなのだと思います。

 

丸山眞男の分析と実証性

たとえば丸山眞男の論を読んだ柳田國男は、実証性がないな、と言ったそうです。丸山眞男東京裁判の記録から軍指導者の発言を取り上げ、軍指導者たちが戦力の差からアメリカと開戦したら必ず負けること、みな心中では戦争に反対であったこと、しかしそれを主張することが出来ずにその場の空気で開戦へとなだれ込んでしまったこと、などをとりあげ、日本の軍指導者たちはナチスの指導者たちとは異なり明確で強烈な自我を持ち得ず、その場の空気という非論理的なものに従ってしまった。そして必ず負けると判断していたにも関わらず開戦という非合理的な判断を選択してしまった、と判断しました。これが実証性がないというのは、おそらく柳田國男にとって日本の常民と呼んだ実際の生活者たちを調査しに向かったのに対し、丸山眞男東京裁判の出席者に直接当たらず記録という二次資料だけに頼っている、という判断かもしれません。

 

しかし柳田國男の起こした民俗学でも小谷野敦という人がよく批判しているように、最早そうした日本の民俗自体が失われています。そしてそれなのになぜ民俗学はまだ存在しているのか、ということが問題にされます。つまり、実証性となりえる対象の失われた学問も存在しているわけですね。

 

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そして直接確かめようのない問題もあります。たとえば世論がそうです。本来厳密な実証性を求めるならひとりひとり確かめなければなりません。しかしそんなことは出来ませんので、統計学の力を借りてアンケート調査等を使って最大公約数的な意見を取り出すわけです。それはたしかに大体当たっているとみなされますが、絶対に一致するわけではありません。これは社会というものが広がりすぎてしまったために、個別的な実証性というものが不可能になったからだと思われます。民主主義もマスコミュニケーションも同じことで、国民の代表として議員が選ばれ大衆の支持としてメディアに情報が流されるわけですが、それを個々の人間がみな喜ぶわけではありません。いわば統計的に支持されているとみなされているわけで、個別化などはなから意識していないわけです。

 

困るのが医療です。ある病状が統計的に8割無事といっても、残りの2割に当たって死んでしまっては統計によって大体当たるから大丈夫、とはいえません。また確か平岩正樹という医者だったと思うのですが、漢方はたしかに効くのだが、その理由を医学で説明するのにあと100年かかる、と述べていたはずです。だからといって解明される100年後まで待っているわけにはいきません。その前に病気は悪くなり死んでしまいます。なぜそんなにかかるかというと西洋医学東洋医学で人体への取り扱い方が全く異なるからで、西洋医学デカルトの観点をひき分割することによって原因を特定していくのに対し、東洋医学は全体のバランスを見て整えていくからです。こうした全体のバランスを考慮に入れず部分的な解明の総体として病気を見るので、東洋医学的な医療行為は西洋医学では正体不明の存在にしかなりません。そのためこの隙間に入って代替医療悪徳商法が生まれるのですが、しかしそれは西洋医学だけでなく東洋医学においてもインチキとみなされるでしょう。なぜなら西洋医学に研究団体があるように、東洋医学にも研究団体があるからで、そこで認められているもの以外はやはりインチキだからです。

 

学界における払い落とし

こうなってくるとそこで正しいか否かという問題はそうした研究団体、すなわち学界によって払い落とされて決定されていくといえます。医学など自然科学における科学的根拠とは、こうした専門学界によって正しいと認められたものが正しいわけです。過去の蓄積と最新の知見との間で、刻々と現れてくる仮説を実証性のもと科学的根拠としていくわけですね。中にはインチキと思われる研究もあるのかもしれませんが、それを他の専門家たちがよってたかって批判してどう間違っているか、もしくは正しいか、ということが決められていくのだと思われます。

 

 

しかしこうした学界は自然科学だけにとどまりません。自然科学化/数学化が未だなされていない人文・社会科学においても存在します。そうした学問領域でも漢方のように100年後までわからない、と目の前の課題を放っておくわけにはいきません。政治でも経済でも刻々と変化し問題は起こってきます。少なくともそうした現実に起こる社会問題に対して、こうした学問は解決の糸口となることを期待されているでしょう。いつか完成する答えまで待ってくれ、といって死ぬまで答えないわけにはいきません。そのためこうした学界でも答えを出そうと苦心を重ねて研究していることでしょう。そしてそうしたそれぞれの水準で実証性も求めているかと思います。民俗学であれば直接農村を訪ねて見聞きし、話を聞く。歴史学であれば史料を発掘する。社会学であれば組織を観察したりアンケートとか調査をしたりする。多分こうしたことをすると思います(直接知らないから想像にしかならないけど)。

 

蓄積されたデータと理論化

そうして集められたものがひとつのデータとなり蓄積されていくことでしょう。いわばこの段階が自然科学における観察にあたるかと思います。となると次は自然科学が行なったように仮説を立てなければなりません。理論化です。こうした理論は各資料を使い、すでに存在している古典的理論とみなされるものを利用したり批判したりして書かれるかと思います。そして新たに生まれた理論も学界の中で批判され妥当とみなされたものが新しい古典的理論として認められるわけですね。

 

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こうした理論はたくさんあります。たとえば、ウェーバーの資本主義成立の理論、デュルケームの社会的混乱や社会起源の認識の理論、フッサールの体験の学問化の理論、などなど。そしてそれぞれエートスアノミー、集合表象、現象学といった形で概念化され、他分野にも応用されています。現象学は哲学ですが社会学にも応用されシュッツの現象学的社会学が生まれましたし、エドワード・レルフやイーフー・トゥアンのような現象学的地理学(だったかな)なんていうのもあります。デュルケームの集合表象は人類学に応用されましたし、アノミー現代社会を考えるのに非常に便利な概念です。

 

これと同じように丸山眞男の提出した空気という概念は、日本社会における意思決定のメカニズムの把握として学問的に認められたといえるかと思います。もちろん批判はあるでしょうし、間違っていると考えてもかまいません。それはポパーのいう反証可能性というものです。そのため日本人は空気を読む民族だ、というのは、みなが空気を読むと言っている空気を読んで言っているだけで、科学的根拠など一切ない、というのは、少なくとも政治学丸山眞男に照らして判断するならば不十分かと思われます。

 

まとめ

まとめますと

 

1.科学的根拠とみなされる自然科学の方法は、人文・社会科学においてはまだ未成熟である。

 

2.しかし各分野における諸問題への解決の試みは放棄されるわけにはいかない。

 

3.そのため専門家集団における議論の中で妥当とみなされるものが払い落とされて決定していく。

 

4.そしてそうした理論や概念が古典化して現状分析や他分野への応用がなされる。

 

といったところでしょうか。

 

ひとつしかお話できませんでしたがあまりに長くなりすぎてしまいましたので、今回はこれでやめにします。あぁ、疲れた。

 

気になったら読んで欲しい本

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 

丸山眞男超国家主義の論理と心理』 

丸山眞男の本。戦中の軍事指導者の発言をもとにして空気という概念を取り出しています。空気を読む、とか、日本人は空気を読む民族だ、という紋切り型に疑惑を持たれる方はまずその原典に目を通してみるのがいいのではないでしょうか。元の論文は文庫におさめられていて手に取りやすくなりました。ひとつひとつの文量もさほど多くありませんので、読もうと思えば読める本かと思います。ただ私は文庫版は読んでいません。

『わたしの知的生産の技術』 

小室直樹が社会科学の数学化の段階について書いていたのはこの本の中でです。いろんな人の勉強方法を紹介したもののひとつとして小室直樹がいます。私は小室直樹のところだけ読みました。

メンデル『雑種植物の研究』 

19世紀的科学の典型的な探究方法が実際に行われて書かれた本かと思いますので載せておきます。メンデルはエンドウマメを使って遺伝の研究をした人ですね。それを観察・実験・再現性という手順を踏んで証明しているんだと思います(私は詳しくないので読んでもよくわからないんですけど)。読んでみると大変手間のかかる研究のように思えます。これを刻一刻と変化する社会において応用すると、膨大になりすぎてやりきれないのかもしれませんね。

ベルナール『実験医学序説』 

私は読んでいないんですが、19世紀的な科学の手順を整理した本らしいことを読んだ覚えがありますので、一応載せておきますね。ちなみにゾラはこの本を応用して自分の小説世界を作ろうとしたのだそうです。当時は小説でも科学的になろうとしたのですね。

ポパー『科学的発見の論理』 

ポパーの本ですが、私は読んでいません。大体上に述べたことくらいしか知りませんので、興味ある方はこちらを読んでちゃんと正しく判断してくださいね。

平岩正樹『がんで死ぬのはもったいない』 

平岩正樹の本。私は読んでおらず、昔週刊誌で書かれていたエッセイで上のようなことを読んだ覚えがあります。同じ版元なのでもしかしたら雑誌に書いてあることが含まれているかもしれないと思い載せておきました。

理論と概念の本4冊

ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 

デュルケーム『宗教生活の原初形態』 

デュルケーム『自殺論』 

フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 

これらが色々な分野に適応可能とされる理論と概念の本です。こうしたものがどのように書かれて応用されていったのか、ということは、空気を読むということが広がっていったことと比べてみるのも面白いかもしれません。

応用の本5冊

モース『贈与論』 

レヴィ=ストロース『野生の思考』 

シュッツ『社会的世界の意味構成』 

レルフ『場所の現象学』 

イーフー・トゥアン『空間の経験』 

こうしたものが応用されたものの例かと思います。比べて読んでみると面白いかもしれませんね。私は読んだものもありますし読んでないものもあります。

 

続きのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/26/190017

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/27/190039

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

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