権力と言葉 〜権力者も言葉によってしか命令できない、はず
言葉と音と規則
言葉がまず音であり、規則をもっている。そしてその規則は母国語を話す限りお互いに無自覚な水準にまで理解している。
とりあえずここまで考えました。
人は言葉によって考える
人が物事を考える時、どうしても言葉に頼らなければならないということは、この複雑な規則を使うことが出来るからかもしれません。つまり色や身振りでも意思を伝えることは可能でも、そこから考えることまで至らないのはこうした複雑性を可能とする規則がそれらにないからでしょう。なぜ色や身振りでは複雑さがないのかといえば、人間は言葉でその役割を果たしているからです。つまり言葉の元となった音、これを発することが最も人体において労力を必要としなかったため、音を使って複雑さを積み重ねていくことが優先されたのだと考えられます。音によって複雑な規則を用いて言葉とした人類にとって、他の方法で同じだけの複雑さを作り上げていく必要がなかったというわけですね。だから色や身振りが言葉となるまで発展しなかったのでしょう。
音ではなく規則によって考える
こうして考えてみますと、言葉、言葉と言いながら、実は考えたり事細かに説明したり内容を正確に伝えたりという働きは言葉そのもののうち音にではなく、複雑さを可能としている規則によるものだ、と言えそうな気がしてきます。そしてこの規則は母国語となる言葉ではあまりに自明で自覚できないほどに理解していると言えそうです。だから外国人に言葉の使い方を尋ねられてもうまく説明できないのでしょうね。
【ソシュール『一般言語学講義』】
命令もまた言葉の規則によって伝えられる
さて、そう考えますと命令する方とされる方も言葉(もしくは母国語)の規則を共通してもっていることになります。そしてそれは命令をして正確に伝えようとした時にも同じです。命令者は言葉を使ってしか正確には命令できません。そして命令される方も言葉を使ってくれないと命令を正確に理解できません。
この時命令する方もされる方も同じ言葉の規則に従って命令内容を交換していることになります。一方は与え、一方は受ける。しかし理解出来なければ尋ね、与え返す。こうした命令に対するメッセージの交換ですね。そして同じ言葉の規則に従っているため、相手が言葉によって表現した命令内容を正しいかどうか検証出来てしまいます。それは反抗することではなくても出来てしまいます。命令をよく聞くためにも必要だからです。
そしてその過程で相手の命令が正しいか間違っていないか、本人にも追及することが出来るわけです。このような真似が出来るのは、命令というものを介して同じ言葉の規則を用いているからです。これはどのような権力関係にあっても、人間であるという共通要素から共有してしまわなければならない原則です。だからこそ言論というのは権力に対して重要なものになるのでしょうね。権力者側でも自分たちのやっていることを説明せねばならず、それを無視して行ってしまうと今度は知らないところで誰かが権力者のためと称して悪さを働くこともありますので、そうした小悪を縛るためにも権力者は命令や説明をせねばならないのです。そしてその時言葉を使わざるを得ず、受け取る側でも、これちょっとおかしいんと違うんかい、なんて思うわけです。
命令もまた言葉/論理である
こうして権力は一方的に相手を従わせようとしながらも、その正確さのために言葉を使って説明せざるを得ず、言葉には与え手ー受け手が共有する規則があるために自らの説明した言葉において正しさを検証されなければならないことになるのでした。
ポイントは人間は言葉抜きには何事も細かく理解したり伝えたりすることが出来ない、ということですね。相手を従わせる権力においてもこの手順は捨ててしまえないので、その点を逆手にとって論理的整合性により追及するわけです。少なくとも、それは可能だ、ということにしておきましょうか。
【山下正男『論理学史』】
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お話その31(No.0031)