命令と論理と言葉 〜共通する規則、という事ですね
命令に対して従いながら命令内容を確認し直すことによって、距離を保つことと検証という重複した態度を持てることがわかりました。
ここで一旦命令に従おうとすることで、命令者を拒絶することなく距離が取れることになります。その上で確認し直すことによって命令が本当に正しいものなのかどうか検証することが出来るようになるわけです。
反抗ではない批判の態度
こうすることによって無闇矢鱈と反抗するわけではない批判の方法を身につけることも出来そうです。命令が可能となっているということは相手との間に上ー下の権力関係の中に絡めとられているわけです。ここから逃れられないから命令をおかしいと思っていてもはねのけることが出来ないのです。ならばこの上ー下の権力関係を維持したままに命令者へと批判の矢を向かなければならず、そのためにはこうした態度の二重化は有効な方法の一つになるかもしれません。組織や人間関係から逃れられない現代人の世知がない知恵といったところでしょうか。
【ウェーバー『権力と支配』】
論理の中の確認
それはともかく、昨日も書いたかもしれませんが、これが可能となるためには命令する方もされる方も同じ論理の中にいなければなりません。その理由として命令をしっかり守ってもらいたければちゃんと命令する内容を伝えなければならないからで、そのためには言葉で順序よく説明する必要があり論理的にならざるを得ない、というものでした。
ただこれだけではなく、論理というものはコミュニケーションにおいても非常に重要なものだと思われますので、そのことについて考えていきたいと思います。
論理と言葉
論理と言いましたが、まずその前提として人間は物事を考える時言葉を使ってしか考えられません。色や音、身振りや仕草によって意思を伝達することは可能ですが、事細かに考えることは難しいのではないでしょうか。暗号や伝令の際色や音を使って伝えることは可能だと思いますし、手話のように身振りによって複雑な内容を伝えることも出来ます。しかしそれらはすべて言葉というものを踏まえて加工したものとして作られているような気がします。
ではなぜ言葉が生まれたのでしょうか。これは大変難しい問題なので完璧な説明が存在しているのかもよくわかりません。ただどこかで口と舌が人体の中で最も音を出すのに労力を必要としない器官だったので、そこから出す音によって情報の伝達をするように人類は進化していった、というような話を読んだ覚えがあります。
つまりこの考えに従えば言葉はまず音だったわけです。それをより複雑な内容を伝えられるように変化していき、言葉となっていったことになります。
【吉本隆明『言葉にとって美とはなにか』】
言葉と複雑化される規則
しかし同時に音を複雑化させることによって、音はただの音ではなく言葉になったともいえます。そしてこの複雑さを伝え、理解できるということは、この複雑さの中に互いに理解することが出来る共通した規則があることになります。そしてこの規則を人間は言葉を持つ以上共有していることになります。少なくとも母国語においてはこの規則を無自覚なまでに理解し、共有しているはずです。
たとえば私がここで書いている言葉も日本人であればまず一読してわかるはずであり、それは書いている人間と読んでいる人間との間で日本語という共通の規則を持っているはずだからです。そしてもし読んでもわからないのであれば、書いた人間が規則から逸脱した書き方をしているか、読んだ人間が理解することを拒絶しているからか、もしくは書いたものが規則を複雑化させた難解なものになっていて、一読して理解できるものではないからかと思います。法律の文章などはきっとこれでしょうね(違うかな?)。
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権力と言葉の相互関係 ~命令と言葉の規則による論理 - 日々是〆〆吟味
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お話その30(No.0030)