日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

【伝統と合理性】エートスの形成を阻害する社会の伝統性と、合理性の追求を可能とする近代教育や社会にいきわたっている既存の公共志向な思想の必要性について【ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『支配の社会学』】

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エートスと社会の伝統性と合理性 〜昔ながらの世の中を変えるのは大変なんです

近代資本主義はエートス抜きには成り立たない、と書きましたが、しかし見回してみますとエートスのある人よりなさそうな人の方が多そうですし、お金儲けして成功してますね。今ももちろん資本主義のはずですが、こりゃ一体どういうことでしょうか。最近は資本主義が機能していないことになるのでしょうか。とてもじゃないですけどそんな風に見えませんね。

 

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資本主義の成立と成立後

実はウェーバー先生が研究したのは資本主義というよりも、資本主義の成立条件だったのです。資本主義はいつの時代どこの地域でも存在するが、近代資本主義はヨーロッパでしか誕生しなかった。その理由は何か、というわけですね。そのため資本主義以前の社会からいかにして資本主義を立ち上げるか、となった時にエートスのある人物たち(もしくは階層)が必要になってくる、ということです。

 

となると資本主義が成立した後はどうなるのでしょうか。ウェーバーを読んだ時そんなことは考えずに読んだものですから覚えていません。もしかしたら近代資本主義として成り立ちながらも、一度成立して機能し始めたら普通の資本主義になるだけかもしれません。つまりお金儲け主義ですね。なんかこの説明の方がしっくりくる気がします。

 

世界化する資本主義とエートス

ともかく一旦成立した資本主義はヨーロッパ圏を越えて機能します。しかしそれを自らのものとするには、その国においてエートスが必要なのだと思います。たとえば東南アジアやアフリカにおいて資本主義が成り立たない理由の一つにエートスを担う層がいないことも挙げられていたような気がします(でもどこで読んだか忘れました。もちろんウェーバーの本じゃなくて、そのあとで研究されたものですよ。ウェーバーは第二次大戦前に亡くなってますから、アジアやアフリカどころか、日本以外はそんなこととてもじゃないですが不可能でした。そのため日本は最初希望の星だったみたいですね)。

 

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特に資本主義を担うためのエートスは勤労でした。働くことはいいことでなければならないのです。しかし気候の良すぎる熱帯では働く必要なく食べ物が手に入りますし、そもそも労働を尊ぶには暑すぎます。また負けた相手を奴隷にして働かせてたりするのが当たり前ではそんな価値観生まれてきませんし、むしろ戦うことこそよく労働を蔑視するかもしれません。働くことがいい、という価値観を持つことは、実は大変なことのようです。当たり前のようにしてそう思っているのはかなり立派なことなのかもしれません。そのため日本から東南アジア諸国に事業開拓や職業指導などで行くとそうした面でもカルチャーショックを受けるらしいのですが、それはエートスが違うからですね(昔何か支援事業みたいな雑誌の漫画で読んだ)。世界中が働くことをいいことだとは思っていないのです。これに驚けるのが日本の強みかもしれませんね。

 

資本主義を担う、エートスのある層

そのため、非ヨーロッパ圏で資本主義を成り立たせるためには、単に資本主義経済を導入すればいいというわけでもないようです。そのシステムに従って動いていけるようなエートスを持った層がいてようやく動いていくようです。

 

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なんでもアフリカでは部族社会が強いらしく、ある種相互扶助で生活が成り立っているようなことをどこかで見た覚えがあります(TVだったかな)。たとえば身内や知り合い同士で貸し借りしたりしてその日その日を乗り切るのだそうです。その関係性の中にいると、その外に出て近代的枠組みを作り上げることは困難なようです。学校を作っても行かないし、既にある枠組みの中で働いている方が確かという価値観があり、また実際生活していけるのでは行く必要がありません。既知の合理性である日常から未知の合理性へと向かうことは不合理に映るかもしれません。いわばここでもデュルケームのいう集合表象が成立しているわけですね。既にある日常は既知の合理性なのです。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/02/193043

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/03/193022

 

共同体と近代社会と経済圏

しかし不思議なことに、こうした国では国家経済は破綻しているらしいのですが、地域経済は平気で機能しているのだそうです。つまり国家という巨大な単位で経済圏を成り立たせるためには各種行政機能が働いていなければなりませんし、それに従事する人たちも大量に必要です。しかしそのためには人を育てなければいけません。それを可能とするためには学校によって地域的な価値観から一般性へと転換出来る価値観を教えなければなりませんし、そこからエリートを生み出し配置していかなければなりません。なぜなら身内贔屓が当たり前ではなく、平等に扱わなくては官僚制は機能しないからです。身内同士の貸し借りで地域経済が回っている中で育てば、その外の人間も同じように扱うのは難しいでしょう。いわば民族宗教と世界宗教の関係ですね。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/27/193013

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/28/193010

 

そのためには身内同士でしか行われない経済活動から離れ、普遍的な基準で人と接する必要があります。それがウェーバーのいう伝統的支配から合理的支配への移行であり、具体的には法です。では身内的な価値観では何によって裁かれるのでしょうか。それは掟によってです。その地域やグループによって決められたルールです。合理的な理由はありません。ただそう決められているというだけで、以前から続いているというだけです(ウェーバーがどう説明していたかは忘れました。下に本載せときますね)。それに比べて法は合理的な基準によって裁かれます。ですから一見わけのわからん理由で擁護されたり弁護されたりしていますが、それは合理的な基準によってしか裁かないからです。それを放棄してしまうとどうなるかといえば、掟になってしまいます。わかりやすくいうとリンチです。根拠ありません。合理的な判断ではないから、集団(世論)で悪者と決められた者は根拠なく裁かれるのです。イジメと一緒のメカニズムになってしまいます。庶民感覚からすると意味不明な裁判には、こうした非合理的な前近代的な社会へと戻さなためにあるのですね(よく知らないので勝手な推測ですけど)。

 

日常を超えた普遍的な価値観の必要性

いわばそうした地縁的な社会から脱皮しなければ資本主義社会は成り立たないのです。それを飛び越えようとしたら、より上位の価値観から個人的に価値観を形成させていなければなりません。そのため渋沢栄一は論語を研究したのですし、またその価値観に従って実業家として歴史的な仕事をしました。

 

それを可能とするためには、日常を越えた価値観である思想体系が存在していること、いわばデュルケームの集合表象を越える価値観を生み出せる源泉をその社会が持っていること、しかもその思想体系は社会志向性を内包していること、そしてそれを個人として内的規律として確立すること、しかもそれが一定の層として存在していること、などが必要になってくるのかもしれません(ウェーバー先生はそんなことまでいってなかったかもしれませんから、これは私の勝手な意見です)。

 

そしてこれを揃えるのはかなり大変なようで、世界経済が完全にグローバル化するまでの間、世界中が苦労したようなのでした。

 

なんかむちゃくちゃ長くなってしまいました。

ちょっとその分もとまりがないかもしれません。それにしても書いてても疲れました。

 

気になったら読んで欲しい本

【ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『支配の社会学』】 

 最近いつもの本。今日は本文が長くなったので説明は割愛。気になったら前回までの読んでくだされば幸いです。

 

で、ウェーバーの政治学の本。ウェーバーは支配の類型を3つにわけます。それがカリスマ的支配、伝統的支配、合理的支配です。カリスマは個人、伝統は王政みたいに続いているようなもの、合理的なものは官僚制です。

これは別個のものであると同時に相互に推移していく関係にあり、政治でも宗教でも最初の指導者はカリスマ的に活躍して支持されますが、人間であるため必ず死にます。死んでも支持者は残されるので自分たちのリーダーとして誰かを必要とし、死んだカリスマ的リーダーの血縁者を新たなリーダーにしがちです。それが固定化すれば血縁による支配の王政となりますが、王様が初代のカリスマ的リーダーのように優れていればいいのですがアホも出てくるので周りがしっかりしなければなりません。そこで王様抜きでも機能するような体制が成り立ち、アホが上にいたとしても上手くいくように合理的なものへと整えられていきます。そのうち無能な王族は捨てられて合理的な体制のみが残ります。しかしそうした体制は合理的ですが合理的であるがゆえに細密化し誰も全体を見渡せなくなります。すると見えないところでそこかしこに腐敗していき体制が維持できないほどに腐っていきます。それを打倒して新たな体制を作る者としてカリスマ的リーダーが現れる、というものです(多分。大体はあってると思うけど…)。

今回のお話で関係するところでいえば、伝統的支配の社会は今までと同じように続いていた社会です。しかし資本主義社会に移行するためには社会全体を変更しなければなりません。しかしそんなこと、普通では不可能なのだと思います。近代国家は国家という単位を自分たちですべてまかなわなければなりませんが、そのためには超巨大な組織が必要で、それが官僚制です。官僚制は合理的支配の典型ですから、非合理的な価値観で生きている人間には担うことが出来ません。しかし伝統的支配の社会に生きている人間にとって、自分たちの生きている世界こそが正統性があるのです(デュルケームの集合表象ですね)。そのため伝統的な価値観に従っている人間から合理的な価値観に従う人間へと転換しなければなりません。そのようなエートスを形成しなければ近代的な社会を運営出来ないのです。

そのため地縁経済が成立していて国家経済が破綻しているということは、その国は未だ伝統的支配の状態にある、と考えられるのかもしれませんね。

 

…って、本の紹介まで長くなってしまいました。とんだ大作になってしまいました。読むのも大変だったと思います。つ、疲れた…

 

次の日の内容

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お話その106(No.0106)