日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

文化の面白い生まれ方と移り変わり。自分の文化への自己言及と商品によって成り立つ自分の表現 〜日本アニメの場合による『創られた伝統』

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文化の自己言及化と商品性

手塚治虫の制約のもとに戦後のアニメは出発します。金ない、人ない、動かない、粗製乱造と、悪くいうには事欠かない有様です。その中で手塚治虫は同じ絵を使いまわしたり必要のない絵を描かなくてすましたりしてなんとかして乗りきりました。

 

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しかし、この手塚治虫のアイデアを聞いて、みなさん今まで見てきたTVアニメから思い浮かぶことはなかったでしょうか。たとえば同じ絵の使い回し。これは変身シーンや必殺技のシーンなどで毎回行われています。

 

同一シーンの使い回しと決めシーン

古い例になりますが、『北斗の拳』でケンシロウが戦う前に服が破けるシーン。また『美少女戦士セーラームーン』で変身するシーン。同じく『美少女戦士セーラームーン』で毎回見る、敵を倒す時の必殺技のシーン。またまた『勇者シリーズ』にある必殺技のシーン。

 

これらすべて、毎回同じ絵を使い回しています。しかしそれを見ていても手抜きとはあまり思いません。むしろ子供心に一種の決めシーンとして心待ちにしてしまいます。それどころかこの決めシーンとでも言えるものの魅力を踏まえているかのようなゲームまで出ています。もちろん『スーパーロボット大戦』シリーズですが、もし日本のアニメにこうした使い回しのシーンがなければこんな着眼点は生まれなかったでしょう。

 

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こうした決めシーンを無理に日本文化と結びつけて説明するならば、歌舞伎の見得から来ているといえなくもありません。嘘か真か別にして、外国人になんで日本のアニメにあんなシーンばかりあるんだ、と言われれば、もともと日本には歌舞伎っていうものがあってだなぁ、その影響があるんだよ、と啖呵をきるくらいは出来るかもしれませんね。

 

苦肉の策からの文化化

ただ、本当は違うと思います。なぜそんなシーンが生まれたのかといえば、手塚治虫の責任で安くあげるためです。経済的な理由ですね。しかし、そうして生まれたものを活用する時には、自分たちの知る文化圏の中から取り出すしかありません。その場合歌舞伎から直接取り入れる人もいるでしょうが、そんなもの全然知らない人もいます。しかし歌舞伎を知らなくても、歌舞伎から影響された別の文化的産物が存在することはありえます。たとえば広告の中に歌舞伎的な要素があり、そこから影響されて自分の文化の中に取り入れることはありえます。こうした場合歌舞伎からの直接の影響はありませんが、間接的な影響はあるといえます。そして日本に住んでいる限りは、アフガニスタンやインドネシアよりも日本の文化から影響されやすいのは間違いないと思います。日本文化(というより母国文化でしょうか)はこうして知らぬ間に継承されているわけですね。

 

自己言及化されることにより起こる日本文化化

また先ほど外国人に言われたらどうするか、なんて書きましたが、この場合も日本のアニメが決めシーンが多いのはたまたま安くあげるための歴史的要因によるのですが、それを弁護しようとしたら、やはり自分たちの文化の中から説明することで正当化しよう、という態度も生まれるのです。となると、安くあげるという経済的、手塚治虫の都合による歴史的、といった偶発的な要因でしかなかったものが、日本文化的な説明によって自己言及化されることにより、あたかも本当の日本文化の継承者のように受け取れてしまうのです。つまり説明されてしまうことにより、ただの偶然生まれたものが必然的な存在であるかのように錯覚するのでした。ある種の文化の捏造みたいなものですが、自己正当化する場合や利用する場合にはよく使われるのかもしれません。では真の文化は、となると、これもよくわからないのでした。

 

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また、顔のパーツによって描く量を減らしたことも、日米の文化的差異として説明することができます。アメリカであれば感情表現は全身を使って大げさにする、ジェスチャーを多用する、だからキャラクターも全身を描く。一方日本はそんなことなく表情の変化で相手の感情を察する、だから顔のアップを多用し目と口の動きに集中する。

 

なんだかもっともらしいですし、もしかしたら本当かもしれません。違うというにはどのような根拠を持って示せばいいのか、ちょっと困ってしまいます。この場合、いや、手塚治虫の都合で安くあげるためにそうなったんだ、と歴史的な理由をあげても、いやいや、そうして顔のパーツをわけて描くと思いつくこと自体日本的なんだ、と言われれば、なんか、う、そうかな、とか思ったりもしてしまいます。その上、君たちはお正月に親戚が集まってパーティをするだろう、その時に福笑いという顔をバラバラにするゲームをするじゃないか、それは日本の伝統的なゲームなんだろ、そこから発想しているとしたら、日本的であることは間違いない、なんて言われたら、私なら黙ってしまいそうです。

 

こうしてアメリカ文化が日本文化へと化けていく

話が長くなってしまいましたが、ともかく、こうして本来アメリカのものであったアニメーションが、日本の中で変質していった過程を日本的に説明することによって日本文化化してもいくのでした、ということにしておきましょうか。おかしいな、そんな話書くつもりじゃなかったんだけど…。ちょっと長くなりすぎたのでここで切り上げることにしますね。

 

参加となる本

【ホブズボーム『創られた伝統』】 

国民的な伝統が、案外その都度の都合によって作られていったものであることをイギリスを例にして説明した歴史の論文集。とても面白く、文化が商売や村おこしのような形で、すでに死んだものを引っ張り出して定着されていったことが書いてあります。

逆に言えば文化はなによりも商売であり、商品として他の商品にはない唯一の価値を持っているともいえます。なぜなら歴史的偶然性は他では真似できないからです。1192作ろう鎌倉幕府、はたまたま偶然その時にその場所で起こった出来事でしかありませんが、代わりに他のどの時代のどの場所でも同じことは起きません。ですから鎌倉幕府成立の地を堂々と掲げてイベントが出来るのはただ一ヶ所しかないのです。鎌倉幕府の成立に関する競合は存在しないことになります。つまり文化は市場に出せれば独占可能な商品なのです(そりゃ江戸幕府や安土桃山時代とは競合しますから、別の問題は出てきますけど)。生産商品であればコストカットや市場比率によって大手に勝つことは出来ませんが、文化は特定の対象を保持している者が唯一の価値を独占していることになるので、こうした競合はありません。アメリカであれヨーロッパであれ中国であれ、日本文化を模倣することは出来ないのです(日本も他の国の真似は出来ませんけどね)。

せめて保守派を名乗りながらその実経済的覇権主義者でしかない政治家の先生方にはこの本を裏側から読んで、いかに文化が国際競争で売ることが可能な商品なのかぐらい知って欲しいと思います。金にならないからといって伝統芸能を潰そうとしたり、人文関係の学部を潰したりするのは金のなる木を切っているようなものです。まるで花咲か爺さんに出てくる隣の意地悪爺さんみたいな真似ですので、金が欲しけりゃポチも桜の木も木の臼も残しておく方が賢明と思います。商品はあるのですから、売り方を考えればいいのです。そしてその売り方こそ、文化的な説明による自己言及化を外に撒き散らすことではないでしょうか。そのためには知らん人間を言いくるめられるだけの蓄積ある説明が必要となってきます。伝統芸能という商品と、人文科学によるパッケージ化。これをわざわざ捨てる必要はないのです。

と、途中でこの本のことを念頭に浮かべてしまったので思っていたことと全然違う内容になってしまいました。私の憤りが表れた会になってしまいましたね。面目無い。

 

 

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 お話その60(No.0060)