手塚治虫あれこれ 〜原稿、締め切り、逃亡、執筆…
手塚治虫と締め切りやぶり
ちなみに手塚治虫は締め切りをよく破りました。それどころか締め切りを破ること自体を楽しんでいたそうです。いかにして原稿を取りに来る編集者を煙に巻くか、遊んでいたといいます。ちょっとトイレ、と言って目を離したら消えている、とか、原稿をあげる順番を滅茶苦茶にして、出来た原稿から持って行かせないようにした、とかいろんなエピソードがあります。
どんなところでも描く手塚治虫
逆にどんなところでも原稿を描いたともいいます。たとえば出版社の行うパーティーというものがあります。なんでも漫画家は仕事場に篭ってするものですからあまり漫画家同士の交流は出来ないらしく(詳しくは知りません)、そのためこうした漫画家を集めたパーティーを出版社か開くのだそうです。その中で手塚治虫先生の出版記念パーティーというものが行われた時、主賓は手塚先生なのですが、時々姿が見えない。あちこちで人に挨拶し、ちょこちょこと食事を口にしてしばらくするといなくなる。あれ、と思っていたらまた姿が見える。どうしたんだろうと後を追って見ていると、ふと、隣の部屋に消えていく。覗いてみればそこに原稿を広げて作品を書いているというのでした。自分のパーティーだから出席しないわけにはいかないので顔を出したのだけど、締め切りに間に合わないからその場で原稿をあげていたのです。その姿を見た人はびっくりしたそうです(誰が書いていたか忘れてしまいましたけど)。
また手塚治虫は漫画分野の立役者であることは誰もが認めます。そのため手塚治虫を文化人としてあちこちに引っ張りだしました。ただでさえいそがしい手塚治虫。漫画の原稿は山積みで、締め切りも山積みです。そんな中インタビューやTV出演までさせられるのですからたまったものではありません。メディアも考えてほしいものですが、そんなこと関係ないのは今も昔も同じです。また今では考えられないかもしれませんが、漫画は悪書の筆頭でした。そのため漫画の地位向上のためにも開祖である手塚治虫自身がメディアに登場し、世間の誤解を解こうとした面もあります。そのため積極的に表に出ていたのだそうです。そしてその移動中、タクシーの中で原稿を描いていました。小学生が使うような画板を備えてTV局までの間に作品を描いていたというのです。昔の映像で見た覚えがあります。
権威に弱かった手塚治虫 〜悪書漫画の苦悩
また漫画が悪書の時代でしたから、そのイメージを払拭してくれる権威には滅法弱かったそうで、NHKと朝日新聞に手塚治虫は大変弱かったそうです。自身が医学部出身であることも大いに利用し、お医者さんになるくらいの人が描いてるんだよ、と読む子どもたちの親にメッセージを与えていたといいます。こうした努力の果てに今の地位があるわけですが、なんだか文学の最初とも似ていますね。学士さまが小説とかいうものをやっとるらしいぞ、と言われたそうですからね。明治時代と昭和とで案外似たことやってるんですね。
穴あき原稿と代筆デビューのチャンス 〜当時の若手漫画家の様子
ちなみに締め切りを破りますと原稿は落ちますが、雑誌はそのまま発行されることになります。となると穴が空くことになりますので代わりの漫画家に作品を描いてもらわなければいけません。これこそが当時の漫画家の卵たちにとって雑誌に載ることのできる唯一の可能性でもあったそうです。当時は漫画家は何作も掛け持ちで作品を描いていたそうですから穴が空くことも珍しくなかったそうです。しかし、ではそこで雑誌に載るのチャンスがあるからといって喜べばいいのかと言えば、そうでもないらしく、みなもと太郎によれば当時雑誌に載っていたのは手塚治虫を始め、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、水木しげる、さいとうたかを、といった面々で、この中に穴埋めとして新人の原稿が放り込まれるのだそうです。錚々たる面子の中に入り込み読者の目に厳しく晒されるのだからたまったものではなかったそうです。そりゃそうでしょうね。
手塚治虫の話は沢山ありますが、長くなってしまいましたからこれくらいにしておきますね。
参考となる本
【手塚治虫『ぼくはマンガ家』】
ただ、他の面白いエピソードは大抵ほかの人が書いていることなのですが、それがどれだったかほとんど覚えていません。なのでこれくらいしかあげられないのでした。
【みなもと太郎『完全版 ホモホモ7』】
ちなみに漫画で始めてボンデージを描いた作品なんだそうです。へ〜。
次の日の内容
手塚治虫の倒産の危機とキャラクターグッズのビジネス展開 〜アニメ制作費(安い)のしわ寄せの苦境とスポンサーの意味 - 日々是〆〆吟味
前の日の内容
手塚治虫とアシスタントと週刊連載 ~天才漫画家の多忙な仕事の手伝いとしてのアシスタントにより可能となった週刊連載地獄 - 日々是〆〆吟味
お話その62(No.0062)