日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

フランス革命の影響と社会の変化/混乱に対するバークの異議申し立てという保守主義による保守の誕生 〜既成の社会秩序の維持と破壊への反対という保守思想【バーク『フランス革命についての省察』 】

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/22/190030

 

フランス革命と保守主義の誕生

フランス革命と社会の大混乱

資本主義が成立することによって経済システムが変わり、それに伴って社会システムも変わってしまい政治システムも変わってしまいました。しかしこんな激変が起こったら、その社会が大混乱に陥るのは目に見えています。事実混乱は起こりました。その際たるものがフランス革命ともいえるかもしれませんね(だって貴族ギロチンにかけちゃうんだもん)。

 

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そのためフランス革命を批判的に捉える人もいました。というのも現在の観点からすれば市民革命(=フランス革命)は不可欠のように思われますが、当時の状況からすれば既成秩序を崩壊させた出来事に他ならないからです。新しい秩序が以前と同じように作り上げられるかどうかはその時点ではわかりません。となればフランス革命は政治なんて知らない無頼漢が勢力を頼みに起こした反乱としてだけ受け止められたってそう無茶な解釈だとはいえないような気もしますね。

 

フランス革命と保守主義 〜エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』

そんなわけでエドマンド・バークという人はフランス革命に反対して『フランス革命についての省察』という本を書きました。そのままのタイトルでわかりやすいですね。内容は…まぁ、忘れてしまったのですが(申し訳ない)、バークが批判した立場というものは今日までひとつの水脈として続いています。この20年くらいでよく聞くようになったかもしれませんが、保守という立場です。

 

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バーク先生はフランス革命を既成秩序を破壊する混沌とした事件だと受け取ったようです。それは新しい勢力(資本家)がかつて存在していた秩序体系を壊してしまうものと思われました。と同時に現存の社会秩序の破壊でもあります。そのため社会秩序を維持するためにそうした破壊的な革命に反対するのです。

 

そして破壊される前の社会秩序を長年培ってきた立派な社会秩序であると考えるのです。新しい新参者がよくわかってないのに全体を掻き回し、結局壊してしまうだけでなにも生み出さない。こうした意味が込められているのかもしれませんね。今風に言えばニワカはでしゃばるな、ってとこでしょうか。

 

イギリスと保守的風土

こうしたバークの考えは既成秩序に対する破壊への反対、とでも言えるもので保守主義として残っています。またバークはイギリス人でしたからフランス革命はお隣の国で起こった、でももしかしたらこっちにまで波及してくるかもしれない事件としてあったのかもしれませんね(まさか他人事として勝手に口をついていたのではないでしょう)。

 

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私はよく知らないのですが、なんでもイギリスはもともと昔から残っていた風習や法律をよく守るお国柄だそうです。そのため保守主義はイギリスの風土とあっていたのかもしれませんし、バークが出てくるだけの理由があったのかもしれませんね。なんだかえらいはずの政治家までが保守、保守、と叫んでいますので、一度その原点にまで遡って読んでみるといいかもしれませんね。

 

でも保守ってそう簡単ではない立場のようです。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/03/190057

 

気になったら読んで欲しい本

バーク『フランス革命についての省察』 

内容に関してはあまり覚えていないのですが、読んでいてとても面白かったことを覚えています。どうもバークの考えを読みますと、そこらへんの保守と名乗る人はちょっと問題があるんじゃないかと思ったりもしてきます。というのも保守という立場はかなり難しい立場になるからです。それは次回にでも書いてみましょうね。

池田理代子『ベルサイユのばら』 

とりあえずベルサイユのばらでフランス革命について触れておいたら分かりやすいかもしれませんね。って、私は全部読んでないんですけど。とほほ…

 

ギタール『フランス革命下の一市民の日記』 

で、こんな面白い本もあります。フランス革命が起こった当時に生きていた人の日記です。その時にどんなことが起こったのかが一市民の生活者の観点から書かれているかと思います。でもこれも私は読んでいません。持ってはいるんですけど。文庫としてはかなり分厚い本です。

トクヴィル『フランス二月革命の日々』 

フランスでバーク的な考え方を引き継いだらしいトクヴィルのフランス革命の回想記です。これも読んだんですけど忘れてしまいました。でも多分バークの考えを理解するのに手助けになりそうな気がしますね。

 

次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/03/190057

前回の内容

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お話その137(No.0137)

情報が多い現代社会のメディア状況により専門性の欠如した伝播情報=デマがあふれ加速される空気を読む現象 〜短く軽い制限と記号的差異化に戯れるポストモダンによって転倒される意味と表現

 

前回までのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/25/190035

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/26/190017

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/27/190039

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019

 

空気を読むこととメディア

最後に現代において空気を読むことが、どのように現れてくるのかを少し考えてみたいと思います。

 

伝播性と専門性

空気を読むことが伝播的に行われることであり、専門的な見解をもつわけではないことは理解できそうですね。空気を読む、ということはどのようなことかみな大体知っている(伝わっている)のに対し、丸山眞男が『現代政治の思想と行動』でどのように書いて空気という考え方を出したのかは知っている人は少ないわけです。大抵どこからか空気を読むという言葉と意味を伝えられて知るのであり、それはその人個人の開かれた関係性の中でどこからでも入ってきます。一方丸山眞男が直接どのように考えて空気と言ったかは、丸山眞男の書いた本を読まなければなりません。いわば映画の予告をあちこちで見てその作品のイメージを持つことと、直接その作品を見ることの違いみたいなもんでしょうか。

 

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そして空気に抗うためにも、こうした専門性を持った本を直接読んだりしなければなりませんでした。そうすることによって伝播的に伝えられる情報に対して、原理的な立場で対抗できると一応は考えられるからです(しかしこうした対抗も空気に対してはすり抜けてしか対抗出来ないと思われるのが難しいところかと思います)。

 

長大な情報源と簡潔な説明

しかし本というものは情報量が相当に多いものです。古典的なものになればなるほど多いかと思います。そのためそうした古典的な内容を踏まえて物事を判断するということは大変時間のかかるものです。

 

それは読んで学ぶというだけではありません。そうした古典的教養をもし身につけていたとしても、それを踏まえて説明すること自体が難しいと思われます。分厚くて複雑な内容をすっきり要約するなんて、読んで理解しているだけでは多分難しい気がします。そもそも私なんかだと理解すら出来ていません。ましてやそれを簡潔に行うこと、それどころか前知識もない相手に短い時間で満足に理解してもらえるような説明をすることは至難の技と考えられます(もしかしたら不可能かも)。

 

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しかしマスメディアではこうした簡潔な説明が求められます。TVであれば1〜2時間のニュース番組の中で話題をいくつもつめこみ、内容VTRを流したりフリップで説明した上でスタジオにいる人間の意見を聞くことになります。それも人数が多ければ与えられる時間はさらに短くなります。ひとつの話題に1〜2分の発言で全てを尽くそうというのはいくらなんでも不可能と考えられそうです。

 

たとえば以前市民社会について書いたものとしてヘーゲルの『法の哲学』が有名らしい、と載せたことがありますが、『法の哲学』はとてもじゃありませんが1日2日で読めるような代物ではありません。ですが私たちは市民でも国家でも国民でも、なんだか当たり前のように使って知ったような気になっています。それはたしかになんとなく知ってはいるのですが、もともとの説明に触れて理解しているわけではありません(ただこうしたなんとなく知っている、ということを成し遂げたことこそが、日本の近代化の大きな一歩でもあったそうです。それは欧語をそのままではなく漢語化して概念を日本語化することによって、原典を知らぬ層にも社会的な概念を身につけさせることに成功したからといいます。そうならないと欧文原典を読む層しか近代化を担えないのに対し、庶民も一緒に近代化を担うことが出来るからなんだそうです)。

 

 

それは別にTVだけでなく出版でも同じです。要点をかいつまんで説明を書いてくれていても、やはり元に書かれたものから抜け落ちてしまいます。ですからそうした古典から発展した考えがあったとしても、またもとの古典に帰って読み直すことが人文科学ではおこるのだと思います。ましてや私のようなものが書いた文章などざるですくうのもいいところです。せめて関心でもひけてもととなる本を読んでもらえるようになれれば万々歳です。

 

つまり短い説明や簡潔な説明ではこぼれ落ちてしまうわけですね。しかしTVではあまりに与えられる時間が短く、十分な説明が難しいのです。島田紳助はTVで30秒以上1人でしゃべってたらすべってるのと同じ、と言ったそうですが、それと似たようなことがバラエティ以外でも起こっているわけですね。なんといってもTVは時間的表現です。1日は24時間しかないわけで、人がよく見る時間もその中で限られています。そうした限られた短い時間の中ですべてを詰め込まなければならないのですから、そりゃ無理が出てきてもしかたないかと思います。

 

短い表現と記号的差異化

これがネットになってきますとさらに短くなってきました。Twitterは140文字です。ヘーゲルの『法の哲学』が二段組400ページだとすれば、アリとゾウくらい規模が違ってしまいます。こうなってくると短い文章の中に凝縮して要約するとしても、これもまたいくらなんでも無茶かと思います。書けない情報の方が圧倒的に多くなりますものね。

 

そしてそれだけ短ければ中身のあるものよりも中身のないものの方が楽に書けますし話すことも出来ます。バラエティ番組で芸人さんの活躍などを見ていますと、話すタイミングや言葉の種類に大変気を使ってきれいにまとめられるように意識していると時々目にします。ここに続いて話さなければならないような内容が入り込んでしまえばむしろ邪魔になりそうです。プロ中のプロである芸人がもしそうした判断をしているのだとすれば、誰でも使えるTwitterやネットの諸々はもっと見識なく簡潔なものへとなっていくかもしれません。

 

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そしてそうなった時書いて伝わっていく内容は中身のあるものよりもないものになってくるのかもしれません。しかしそれは表面上価値のあるような姿をしているかもしれません。中身に価値があるのではなく、表現の方に価値があるのですね。これは前も書いたような広告による商品とイメージの関係に似ています。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/09/170029

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/10/170055

 

いわば商品とイメージの関係がPーIとあるとしたら、中身のあるものは商品の方であるPです。それを印象によって説明させるためにイメージIがあるとします。イメージは表現であり商品は中身ですから表面Iー中身Pという関係ですね。これが商品がだぶつくようになるのでイメージ上位になって上位:中身Pー下位:表面Iだったのが逆転して上位:表面Iー下位:中身Pとなったわけです。これが消費社会だとしましょう(とりあえず)。

 

それと同じようにネットでもTVでも伝えるべき内容が中身のあるものと簡潔に短く時間/文字数におさまる表現方法との関係にしてみましょう。すると本来重要なのは上位:中身ー下位:表現であるべきはずなのですが、それぞれの媒体においては制限がありますから上位:表現ー下位:中身という風に逆転されるのかも知れません。そして中身に値するものが表現の中に求められるとすると、それは言葉遣いや気の利いたような語彙選択によって担われてしまい、そうではない元々の中身はコミュニケーションの中に入らなくなってしまうのかもしれません。いわば言葉だけの関係になってしまうわけですね。

 

そしてこうした言葉の関係も意味するものと意味されるものとの関係の結びついたものでした。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/24/120052

 

こうした言葉のような関係を記号と読んだりもするのですが、物の実体とではなく記号と関係する(戯れる)のが近代の後の時代、ポストモダンだ、と言われたりもしました。

 

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そしてTV以上にネット、それもTwitterの登場によって言葉だけで戯れる世界が現実に目の前に現れました。そこには言葉という記号だけが存在して、その奥に存在するはずの中身や実体というものがはっきりと具体的には見えなくなってしまいました。もしくはネット上の言葉や記号、もしくは情報が多すぎて現実を覆い隠してしまったのかもしれません。そして言葉/記号によって戯れることにより中身/実体が忘却されてしまうことが、ほとんど空気を読むことと変わらなくなっているのかもしれません。

 

空気を読むことが元となる考えや合理的な判断により決定するのではなく、人と人との間で伝わってくるものをもとにして共感的に決定していくのだとすれば、ただ言葉や記号によって中身や実体の覆い隠されたかのような世界は親和性があるかもしれません。そして空気を読むことが日本的特徴と思われていたものが、もしかしたらネットの登場によって世界的な現象へと変わっていったのかもしれません。ポストモダンと言われた時期に、日本はむしろ近代以前の状態を残していてそれゆえにポストモダン的に見える、という指摘を柄谷行人たちが行っていました。近代はヨーロッパ的世界でしたが、ポストモダンは非ヨーロッパ的でもしかしたら日本と似た世界なのかもしれません。

 

共同体と想像的世界

もともと近代以前の世界は生まれた村から生涯出ることなく終えるような、共同体的世界でした。そのため村こそ世界であり、そこでの人間関係もすべて具体的だったと考えられます。つまりひとりひとりがすべて誰でどんな背景を持った人物であるのかが、お互いにわかっている人間関係です。そうした中では一々説明しなくてもお互いに了解を持つことが出来ます。

 

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一方そうした村=共同体において外の世界は未知のものでした。よく知らず伝えられる情報も少なく、時々訪れる行商人や村の外へ用事で出た人の持ち帰る話によって輪郭が結ばれていたそうです。そうした不確かな情報によって輪郭が結ばれていくのが共同体における外の世界の姿です。

 

そのためこうした外の姿は想像の世界です。それも人の持ち帰った、伝えられた話によって輪郭が結ばれる想像の世界です。そしてこうして伝えられる話、というもの自体が当時における重要なメディアだったわけです。ネットでもTVでも新聞でもうわさ話でも、それは情報が伝えられるという点では同じ働きを持ちメディアであることは変わらないようです。

 

近代以前はテクノロジーの発展が近代的な形ではありませんでした。そのためメディアによって作られる想像的世界は自分たちの生きる共同体の外の世界に限られていました。そのため共同体と想像の世界は内と外の対応関係にあり明確に分かれていたかもしれません。未開社会であればこうした外の想像的世界は神話の世界と重なっていた可能性もあります。自分たちの生きる具体的な世界と、想像力によって構成される世界とが相関関係を持ってそれぞれの人間の生き方を規律していたのかもしれません。

 

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それが近代に入りメディアが発展します。最初出版革命が起こりおびただしい印刷物が現れますが、近代的自我はこうした出版、それも小説をもとにして築かれたかと思います。そしてそうした近代的自我を基礎にして社会も構成されるように思想的にも制度的にも築かれたのかもしれません。

 

しかしテクノロジーはさらに発展します。当然メディアも発展します。ラジオが現れ、TVが登場し、ネットが行き渡りました。もし出版が近代的自我を生むほどの力があったとすれば、それらもまた新しい人間を生むと考えられます。そして近代的自我によって築かれた社会とは合わなくなる人間像が一般的になっているのかもしれません。

 

そして近代的自我が一人でじっと本を読むことと関わりがあり、近代以前の人間が共同体的=集団的に生きており、互いのことは一々説明する必要がないのだとすれば空気を読むことは近代以前の姿と似ているかもしれません。

 

その上で近代社会は人間の移動を圧倒的に広げ、背景の異なる者同士を具体的な関係で生きさせるようになりました。ここで他者やコミュニケーションの問題が切実なものとして現れてきたのだと考えられます。それだけでなくそれまでは外の世界としてだけ存在していた想像的世界が、むしろ具体的世界を呑み込んでしまいました。それはかつてのように共同体の外は想像の上でしか知られていなかったのに、今では必ず実体として存在していることを誰しもが否定できなくなってしまいました。そしてそうした具体的な範囲ではないけれども必ず存在している世界として、社会の情報が伝えられなければならなくなりました。マスコミュニケーションが不可欠な世の中になります。

 

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そしてそのマスコミュニケーションを担うマスメディアが、テクノロジーによってどんどん発展しました。その結果マスコミュニケーションによって形成される外の想像的世界は社会の姿となり、マスメディアによって輪郭が結ばれるようになります。その中で具体的に生活している人たちはかつてのように共同体みたいな自分たちを支える背景がなくなり、社会=想像的世界において自分がどこに位置するのかわからなくなりました。

 

その上でメディアの発展の結果短く簡潔に済まされるようになったマスメディアは、どうしたって具体的で中身のあるものになりっこないのかもしれません。表面的で表現形式の洗練されたものになり、記号的差異化こそがメディアに流れ込んで社会を形成してしまうのかもしれません。いわばテクノロジーの発展の結果、むしろ民俗的な世界のあり方に近づいてきたのが今日この頃なのかもしれませんね。

 

そしてその現れ方として空気を読むことと似た、表面だけが次々と超高速で変わっていくことなのかもしれませんね。

 

なんだか今回はあまり空気を読むことと関係なく、書く必要がなかったお話かもしれませんね。せっかくなので一週間空気を読むことについて書いてみようと思いましたので、蛇足となったかもしれませんがおゆるしください。

 

それにしても長かった…疲れた…

 

気になったら読んで欲しい本

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 

丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 

丸山眞男が空気という考え方を出した本。今週ずっと載せていたので説明は割愛します。

島田紳助『自己プロデュース力』 

紳助がTVで30秒以上しゃべってたらどんな面白い話でもすべってるのと同じ、といっていたのはこの本に載っていたかな。もともとはDVDで出ていた紳助のNSCでの授業を活字になおしたものだそうです。紳助の考え方がシンプルに語られていてとても面白いです。

ヘーゲル『法の哲学』 

ヘーゲルの本。とりあえずどれだけ長いか、という例で出してみただけですので、どこかで見かけたら手に取ってどんなもんかと見てみてください。

ボードリヤール『消費社会の神話と構造』 

ボードリヤール『象徴交換と死』 

実体が後退して表面的な記号ばかりが世界を覆いつくすようなことは、多分ボードリヤールが書いているかと思います。ただ私はよくわからん書き方してあっていまいち読んでもよくわかりませんでした。ですがこの分野の必読書といっていいので載せておきます。

柄谷行人『批評とポストモダン』 

柄谷行人がポストモダンを批判していたのはこの本かな。私はまだ読んでいないのではっきりとはわかりません。

浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』 

浅田彰がとんでもない世界的大物と行った対談集。テーマがポストモダンだったような気がします。随分昔に読んだので内容は覚えていません。たしかボードリヤールとの対談も入ってたかな。

カプフェレ『うわさ』 

うわさ、つまり人から伝えられるということ自体が最も古いメディアの形だ、ということを書いてある本、かと思います。私はまだ読んでいませんので、もしかしたら間違ってるかもしれません(そしたら申し訳ない)。

デュルケーム『宗教生活の原初形態』 

デュルケームが集合表象という考えを出した本なのですが、これはオーストラリアの未開社会を対象にして生み出されました。しかしどうもこうした集合表象は未開社会ではない、私たちの近代社会においても存在していて、メディアによって担われているような気がします。興味のある人は読んで色々と考えてみてくださいね。

 

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トゥガン=バラノフスキー(露 1865-1919) 本【著作(翻訳)ブックリスト一覧/リンク(Amazon)】

ミハイル・イワノヴィッチ・トゥガン=バラノフスキー(Tugan-Baranovskiĭ, Mikhail Ivanovich)

 

 

トゥガン=バラノフスキー著作リンク一覧

近世社会主義 (社会科学大系  安倍浩 訳. 而立社, 1923 → 日本図書センター, 2008)

唯物史観批判 (同人社社会問題叢書 水谷長三郎 訳. 同人社書店, 大正12 → 大正14)

唯物史観の改造 (社会哲学新学説大系 高畠素之 訳. 新潮社, 大正13)

社会主義の新解釈 (社会哲学新学説大系 矢部周 訳述. 新潮社, 大正15)

英国恐慌史論(鍵本博 訳. 日本評論社, 1931 / 新訳 救仁郷繁 訳. ぺりかん社, 1972)

露語初版『英国恐慌史論』 理論編(三浦道行 訳. 時潮社, 2019)

 

トゥガン=バラノフスキー著作一覧

大正時代の出版

近世社会主義 (戦後復刊あり)
唯物史観批判 
唯物史観の改造 
社会主義の新解釈 

戦後の出版

英国恐慌史論
露語初版『英国恐慌史論』 理論編

 

Wikipedia

ja.wikipedia.org

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日本特殊論(日本は変な国で日本人は変)の歴史的背景としての中心と周縁の思想的自覚の差 〜自己中心的思考とは思想的中心であれば普遍的とみなされ、周縁であれば特殊的とみなされる

 

前回までのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/25/190035

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https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/27/190039

 

日本特殊論とその背景 〜中心たるヨーロッパと周縁たる日本の自覚の差

ではこうした日本人特別論、もしくは日本特殊論はどうして現れてくるのでしょうか。

 

近代化の原点としてのヨーロッパ 〜世界に行き渡るヨーロッパ的価値観

また近代化のお話になりますが、近代を生み出したのはヨーロッパであり、近代的文物というものは基本的にすべてヨーロッパ産でした。そのため非ヨーロッパ圏の国々ではヨーロッパ化することこそが近代化を意味しました。日本でもそうですね。ですから西洋に追いつけ追いこせと頑張りつつ、しかしその急性さが浅薄さとも結びついて夏目漱石なんかが嫌ったわけです。

 

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そうした中、ヨーロッパ圏の思想や文化は普遍的なものであるとみなされました。そもそも哲学は普遍的なものを対象にする学問です。そしてそうした哲学の上に近代思想が打ち立てられました。そのためヨーロッパ人は自分たちの考えや文化こそが、最も歴史的に優れていて世界へ敷衍するものだと確信しました。自分たちの世界こそ普遍的なので、実際に世界中へと行き渡って当然なわけですね。

 

そしてそれが嘘と言えないほどにヨーロッパは近代世界で成功しました。地球規模で植民地を持ち合い、科学技術に対抗できるものはなく、民主主義や資本主義に並ぶ体制もありませんでした。そのためヨーロッパ的自尊心は事実としても裏書きされたかのように思われたのです。

 

ヨーロッパが自らを語ること=普遍性の自覚

こうした中でヨーロッパ人が自分たちのことを書いたとします。それはもしかしたらヨーロッパという限られた範囲での特殊な事例であるのかもしれません。しかしヨーロッパ人はそうした特殊性を感じることはありません。なぜなら自分たちの価値観こそ世界化したものだからです。

 

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いわば自分たちのことを語ることは、そのまま普遍的な問題を語ることになるのです。哲学を語ればそれはヨーロッパの哲学ではなく、普遍的な哲学です。資本主義について分析してもそれはヨーロッパにおける資本主義ではなく、人類に現れてきたものとしての資本主義です。民主主義もまた、ヨーロッパが選ぶだけではなく人類が持つべき1番マシな政治体制としてあります。それらはもしかしたらヨーロッパという限られた文化圏での出来事でしかないのかもしれません。しかしこうしたものによってヨーロッパは事実上思想的には世界支配してしまいました。哲学も資本主義も民主主義もシステムや制度であると同時に思想なのです。それは加藤周一がケンタッキーはアメリカの思想である(つまり安い、早い、どこでもある、という価値観そのものの具象化)と述べたように、ヨーロッパ産の文物は世界に行き渡ったヨーロッパ的思想になるのです。だとすればヨーロッパ的なものがもしかしたら地域限定的なものであったとしても、ヨーロッパ人はそれらすべてを普遍的な問題として捉えることが出来るのです。

 

つまりヨーロッパは世界の中心なのです。世界の中心にいる者たちは、自らのことを語ることは同時に世界を語ることに連なるのです。

 

日本が自らを語ること=普遍性ではない特殊性の自覚 非ヨーロッパ圏という桎梏

一方日本ではどうでしょうか。日本においても必ず自分たちの経緯や歴史から導き出される考えというものがあります。たとえば資本主義がヨーロッパの歴史から必然として現れてきたとするならば、日本においてもどのようにして資本主義が成り立ち得なかったか、もしくは移植可能であったのか、また民主主義がいかに機能し難いのか、哲学のような根本的思考がなぜ存在しないのか、そうしたことも考えられるかと思います。

 

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この場合、自分たちの文化圏において、自分たちのことを考えるという点においてはヨーロッパも日本も変わりません。それどころか世界中のどの文化圏においても同じだと思います。しかしヨーロッパは中心であるため自分たちで考えたものが即普遍的で世界的であると考えられるのに対し、日本(もしくは類する非ヨーロッパ圏の国)では自分たちの考えを普遍的なものであるとは考えられません。ヨーロッパが中心であるとするならば、日本は周縁になるのです。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/16/193003

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/02/193037

 

そしてそうした周縁的存在として日本が自分たちのことを考えたならば、それは普遍的ではない特殊的なものである、という風に考えざるを得なくなってしまいます。そのため日本ではいくら普遍的に考えようとしても特殊的にしか考えられないのです(です、って、私の勝手な解釈かもしれないけど)。

 

自らを語ること 〜普遍的であれ特殊的であれ、自らのみを考えている

またヨーロッパが中心であり、日本が周縁であるとしても、そこで考えられたものが普遍的であるか特殊的であるか関係なく、それは自分たちのことを考えている、ということも重要です。つまりどちらにせよ自己中心的に考えたものの結果なのですね。ですからヨーロッパの普遍性は自分たちの真理を未だ目覚めぬ者たちへと覚醒させてやろうと侵略を平気で出来てしまいますし、戦後の日本でも日本特殊論によって内向きの思考をしてしまう結果外国というものが見えなくなってしまうわけです。どちらも同じく、自分のことを考えた結果なのだと私には思われます。ですから日本人特別論が外国人差別に繋がっているのでは、という疑問はその通りであると思われます。

 

特殊的自己中心主義の超克 〜理念、他者、多文化/多民族

ではこうした差別をどう乗り越えるか、ということですが、ひとつはヨーロッパ的であれ日本的であれ、自分たち(〇〇人)を越えた人間や人類といった普遍的な理念を打ち立て自らのものとすることです。ですがこの場合どうしてもヨーロッパ産の思想を応用するしか近道はありませんので、手抜きなしの近代化を目指す、という丸山眞男たちの戦後進歩派の判断が正しいことになります。これは今もって達成されていない問題であり、さらにやり続けるしかないかもしれません(またこうした普遍性は世界宗教とも密接に関わってくる問題かとも思われます)。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/28/193010

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/26/193016

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/27/193013

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/29/193010

 

そしてこの文脈において空気を読むことの問題が現れてきます。即ち合理的な判断をすべき近代的価値観ではなく、非合理的な判断(空気での決定)でしか社会が動かないのでは、その社会は未だ近代化がなされていないと考えられるからです。ウェーバーは近代を脱呪術化された世界だと規定しました。つまり呪術なんていう非合理的なもので判断したり動いたりしないで、合理的な判断によって決定していくのが近代というものの条件だ、というわけです。これを空気で決定してしまうのでは、呪術によって決定するような前近代的な社会とそう変わらないものになってしまう、というふうに考えることも出来ます。そのためもし今でも日本が空気によってしか決定していないのたとすれば、日本は近代社会ではないことになります(そしてどうもここにはアジア的特徴というものがあるらしく、他の国でも似たようなことがあるのかもしれません)。

 

 

もうひとつは柄谷行人が考えたような、他者というものの考え方を踏まえてみることです。柄谷行人のいう他者とは、自分とは異なる規則を持った存在のことです。そのため私と他者との間には絶えざる教えあう関係が生じる、と考えられます。考え方の規則が違うから、逐一確認しあいながらコミュニケーションし続けるわけです。この他者性を欠いて分かり合ってしまうのが空気を読むことだとすれば、他者という考え方は空気を読むことへの批判でもあります。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/04/153050

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/05/153003

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/06/153057

 

あとひとつここで考えられるとしたら、それは多様性を認めることです。多文化や多民族を抱え込みながら社会を作り上げていくわけです。しかしこれを行うには相当の社会的な底力が必要で、未だ空気を読んで社会の意思決定をされてしまう日本では難しい、と見なされている様子があります。なんでもフランスでは元々のフランス人と、季節労働者としてフランスにいる人たちと、旧植民地出身の人たちとがちょうど三等分くらいになるんだそうです(20年くらい前の本に書いてあったので今はわかりませんけど)。しかしヨーロッパの中心的な国であるフランスでも、こうした多民族的国家はうまくいっていないようです。そもそも戦前は植民地をどこでも持っていたので多民族国家が結構多かったのだそうですが、結局それが嫌で民族ごとに独立しようとしたので、この考え方は考え方としては素晴らしいかと思いますが、実際に行うには相当の難業である様子です(ちなみに日本でも戦前は満州がありましたので、日本は島国で海から人が渡った多民族国家である、という解釈だったようなことをどこかで読んだ覚えがあります。戦後と真逆ですね)。

 

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外国人差別をせずに受け入れるとしても、こうした状態のまま受け入れては困ってしまいますので、自分たちとは違う存在をどうやって受け入れていくか、ということを考えた時、どうしても空気を読むという問題が出てきてしまうのだと思います。外国人は空気を読むなんてこと知りませんから、空気を読むことによって意思決定するのでは外国人は社会的な意思決定からこぼれ落ちてしまいます。そうなると外国人は自分たちと違う、ということで敵対的他者とでもいえるようなものになってしまいかねません。今でも精神病の病名がネット上で相手を侮蔑するため隠語と化しています。これは精神病を正常な精神と異なると境界線を引いて、自分たちと違うということで平気で差別しているわけです。しかし精神に正常と異常があるのではなく、社会状況と一致したものが正常とみなされているとすれば、同じ差別状況は精神病でも外国人でも、他のどこであろうと起こり得ます。そしてその境界線が自分たちと違う、ということであれば、非論理的で感覚的な一体感、すなち空気によってその対象が選ばれるとも考えることが出来ます。

 

それを避けるためには空気を読んで意思決定するのではなく、他者へのコミュニケーションと合理性によるしかないだろう、となるのですが、残念ながら空気を読む方が決定力が強いように思われるわけですね。

 

こうして考えてみますと、空気を読む、という紋切り型になって誰もが口をついていってしまう言葉にも中々やっかいで様々な問題がついて回っているのがわかるような気がしますね。

 

気になったら読んで欲しい本

ヘーゲル『歴史哲学講義』 

ヘーゲルは歴史を哲学しましたが、かなりとんでもない考えをしました。人類の歴史はそれぞれの文化圏の持つ思想の戦いの歴史であり、最終的にヨーロッパ思想(と、その完成者であると自認する我がヘーゲル哲学)へと至るものであった、というものです。そしてヨーロッパ的普遍性が世界な行き渡ることによって歴史は完成されるわけですね。ヨーロッパ中心主義のよくわかる歴史哲学です。

ちなみにこの翻訳はとても読みやすいと思います。

ヴァレリー『精神の危機』 

これは戦後ヨーロッパの凋落が目に見え出した時、逆説的にヨーロッパを評価した評論です。すなわちヨーロッパは国際社会の中で勢力を失うかもしれないが、世界中がヨーロッパ価値観のもと動かざるをえないのは、ヨーロッパの勝利である、ということです。中々ひねったやり方ですね。

私が読んだ時はまだ文庫で出てなかったので世界の名著で読みました。けどよくわからず、一緒に入ってたアランの方が面白かったです。

木田元『反哲学史』 

ヨーロッパの哲学が普遍的なものではなく、ヨーロッパという限られた地域で起こった特殊な思考形式である、と述べてある本。だと思います。私は木田元の本を読んで教えてもらったのですが、どの本だったか覚えていません。哲学がなんなのかわからない頃に図書館で読んだものですから確かめようもなく、おそらくこれだろう、という推測で載せておきます。

木田元は日本有数のハイデガー読み(福田和也談)らしいのですが、おそらくハイデガーの考えにもこうした観点があるのだと思います。私にはハイデガーはちんぷんかんぷんです。わからん。

柄谷行人『隠喩としての建築』 

デリダという哲学者がヨーロッパの思考法は二項対立である、といっているらしく、そうした二項対立を柄谷行人がこの本の中で図式化してくれていたと思います。それは西洋と東洋や中心と周縁といったものだけでなく、右左とか男女とかも含めて二つにわけて考えるクセがヨーロッパにはある、ということらしいです。そして一方はもう一方に優位に立ち従属させている、というわけです。二項対立にすることで相手を支配してしまえるわけですね。

ただこの本じゃなかったかもしれません。柄谷行人がどこかで書いていたのは確かなのですが、私の記憶ではこの本のような覚えがあります(違ったら申し訳ない)。

サイード『オリエンタリズム』 

サイードはこうした二項対立のうち西洋と東洋といったものを考えました。それは西洋とは東洋を特殊なものとみなすことによって、それに対し自分たちは普遍的である、と捉えることが可能になる、というものです。まさになぜ非ヨーロッパ圏で普遍性が成り立たず特殊的としてしか考えられないかがこれでわかります。ヨーロッパは東洋を、オリエンタルなもの、として異国情緒に浸らせることによって奇異なものとして東洋を規定してしまうわけです。そしてそうした奇異なるものとしての東洋を判断している西洋は、奇異ではないため正統性を持つように錯覚させることが出来るわけです。

こうしたオリエンタリズムの考え方を転用すれば、なぜ排外的に他国を中傷したり外国人を差別したりするかがわかりますね。そうすることによって中傷したり差別したりする人たちは、そうでない者としてまとまることが出来るからです。かつてはそれを国内的に差別対象を生み出して社会の安定をはかっていたのですが、差別への高い意識によってあからさまには差別されなくなりました。その代わりに国外へと向けられ、政府もそうした感情を利用しているともいえます。

吉本隆明『共同幻想論』 

そして吉本隆明はそうした余所者への恐怖によって共同体内部の結束を固めていた、というようなことを多分この本で書きました。なんでそんな言い方なのかといえば、読んでもさっぱりわからないからです。これは私だけでなく、錚々たる知識人が読んでもわからんと述べています。そのためとにかく難しいです。私にはわかりませんでした。なんといいますか、難しさのタイプが違うんだと思います。

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 

丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 

空気という概念を取り出した戦後思想の出発点。説明は前回までに書きましたので、そちらをご覧になってくださると幸いです。

ウェーバー『職業としての学問』 

ウェーバーが脱呪術化についてどこで書いていたのか覚えていませんが、どうやらこの本にも書いてあるようです。これは講演ですので比較的読みやすく短いものです。随分前に読んだので忘れてしまいました(こんなんばっかり)。

柄谷行人『探究』 

他者についてはこの本に書いてあります。ただ他者についてだけ書いているのではなく、様々なことを考えながら他者というものへと焦点が絞られていくようなものかと思います。とても面白いです。

吉本隆明,糸井重里『悪人正機』 

フランスが人口比率が3分の1ずつになっている、という話はこの本で読んだんだったかな。これは晩年の吉本隆明の座談なんでとても読みやすいです。インタビューだとわかりやすいんですけど、書くと難しいのが吉本隆明です。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

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日本人が空気を読むという、日本的現象の社会/歴史的原因 〜日本の情緒的文化圏、無階級社会、近代的大衆社会とヨーロッパの過剰な論理的文化圏、明確な階級社会の対比と、共通する近代的大衆化問題

 

前回までのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/25/190035

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/26/190017

 

空気を読むことに関するものをまとめたのはこちらになります。今回の内容のものも含めて異なる角度からも説明してみたものですので、もし今回のものを読んで飽きたらないと思われましたならご覧になってみてください。

www.waka-rukana.com

 

空気を読むという、日本的現象の社会/歴史的背景

日本において空気を読む理由というのはどのような理由で現れてくると考えられるでしょうか。おそらくこの問題こそ未だ解決していない難問なんだと思いますが、一応簡単にだけ触れてみたいと思います。

 

ヨーロッパの論理的文化圏と、日本の情緒的文化圏

まず日本に対してヨーロッパを範とするのが近代日本の在り方でした。そしてヨーロッパはウェーバーが述べるように過剰に論理的な文化圏です。ですからそうしたヨーロッパ産近代を日本に移植する際、日本においても同じだけの論理性を持たなければなりません。これがひとつの課題でした。

 

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(ちなみに日本はずっと大国のそばにいるので、そうした大国から学んで自分のものにする国だ、という考えもあります。この観点からすれば、日本は文化的に大国からやってくる文物を取り入れ、自分たちで原理原則を作り上げることが下手だ、ともいえるかと思います。これもまた空気を読むひとつの文化的背景かもしれません)

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/18/213029

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/19/213026

 

しかしヨーロッパは古代ギリシアの時代から哲学をしてきた文化圏です。近代哲学に入っても物をどうやって人間は理解しているのか、ということまで徹底して考えています。それに比べると日本の古代は万葉集に代表されるような、情緒を表現する文化圏でした。それを前近代末期に入って本居宣長がもののあわれ、として取り出したのですが、いわば古代でも前近代末期において自分たちのルーツとみなしたものも、どちらも論理的なものではなく情緒的なものだったわけです。そうした中でヨーロッパ的近代を受け入れることは大変な困難をともなうと考えられます。そして社会的に論理的なコミュニケーションをとるよりも情緒によってコミュニケーションするような空気を読む行為が現れてくるとも考えられます。

 

ヨーロッパの階級と日本の無階級

次に階級問題があります。身分制度は日本にもヨーロッパにもありました。しかし日本では基本的に今は明確には存在しないと思えますが、ヨーロッパでははっきりと残っています(イギリスでサッカーファンということは、労働者階級を意味する、なんて読んだこともあります)。大衆に対して貴族、もしくはエリート層というものは明確で、だからこそ二大政党制が成り立ちます。しかし日本はこうした身分制度を持ちません。ですから社会層として対立するようなものがなく、大衆層が優位になるかエリート層が優位になるか、という形で一面的になってしまうかと考えられます。

 

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以前新聞で人権問題撤廃の日かなにかというのでコラムが書かれていました。そこでは戦後大変高名であったフランス文学者の桑原武夫の話が引いてあり、日本において明治政府の行った身分制度撤廃はヨーロッパの比ではなく徹底的だった、というのです。これを私なりに考えてみますと、明治維新の立役者となった人たちは大半が下級武士階級に属していたそうです。とはいえ新しく発足した明治政府において彼らは政治指導者です。しかし旧時代の身分制度から見ればでかい顔してるのはおかしい、と思われかねません。そのため旧身分制度を徹底的に破壊することによってしか自分たちの地位を安定させることが出来なかったのかもしれません。ともかくこうした徹底した身分制度の撤廃によりヨーロッパ的な階級対立は日本には存在しないことになります。これはヨーロッパに比べて日本の方が立派だと思います。

 

近代化にともなう人間の大移動 〜大衆の問題

続いて近代化における人間の移動の問題があります。近代以前というのは基本的に農業が中心です。そのため土地に縛り付けられて大半の人は生きているのですが、代わりに生まれた村から生涯出ることなく暮らしています。しかし近代的経済体制、すなわち産業革命以降になりますと農業ではなく生産が経済の中心になります。そして生産は工場で行われ、国中から人を集めて一か所で働かせるのです。こうして今までは生まれ故郷でしか生きてこなかった人間が、全く背景の違う者同士一緒に生活させられるようになります。ここから都市も生まれてきますが、同時に大衆という人間の群れも現れてくるのです。

 

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こうした大衆問題はヨーロッパでも日本でも同じです。そのためヨーロッパの大衆状況に対して先鋭な批判をしたオルテガの『大衆の反逆』という本も現れました。それは大衆は無責任で自分のことばかり考えて責任をとらない、というもので(それだけでもないんですが、ここでは簡単にそうしておきます)、代わりに自己鍛錬を果たした貴族(もしくはエリート)が責任を果たさなければならない、とでもいうものです。しかしこれは大衆を馬鹿にしたものや貴族の偉そばりとして読むのではなく、歴史的な変化によって人間が大挙して移動してしまった、ということであり、その結果かつてあった秩序が変化してしまった、ということに応対して現れた考えだと読む方がいいと私は思っています。

 

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さてこうした大衆状況ですが、日本では神島二郎という人が同じように庶民意識を分析したことがあります。それはかつて(近代以前)の庶民は村人で、その村に存在していた規則を守って生きていた。しかし近代化することによって都市部に吸収されそうした規則から切り離されてしまった。しかし都市部に行ったからといって代わりになる規則などなかった。そのため日本中からやってきた村人たちは、それぞれの村の規則のようなものを都市部において行うようになった。元々の村が第一の村であるとすれば、都市部は第二の村として現れた。しかし第二の村は第一の村と違い、昔から存在していたような規則の連続的合理性を持たない。そうした第二の村が主要な意思決定の場を占めてしまうのでヨーロッパ的な市民社会が育たない。多分こんな感じかと思います(神島二郎の本はとても読みにくいので、ちょっと自信がありません)。

 

こうした大衆状況はヨーロッパや日本だけでなく、近代化した国すべて起こってくると思われます。しかしヨーロッパは階級社会ですので、大衆に属さない層が一定数あります。しかし日本はそうした身分制度を撤廃することに成功しましたので、逆に大衆以外の階層が存在しないことになってしまったのだと思います。誰だったか、大衆社会の問題はすべて日本に当てはまる、と述べていた人がいた覚えがあります(日垣隆だったかな)。

 

そして大衆はマスコミュニケーションの対象です。マスコミのマスは大衆のことです。ですからマスコミの仕掛けるイメージ操作に左右されてしまいます。そしてイメージもまた論理的なものではありません。知識人がそうした大衆へのイメージ操作を批判しても大衆にとってはうるさいだけです。むしろ自分たちの好きなものにケチをつける嫌なやつでしかありません。それでも知識人層が存在していれば社会の意思決定を担う者へ働きかけることも有効ですが、大衆しか存在していない(つまり知識人層に配慮しても旨味がない)のであれば、大衆にしか目を向けずに意思決定をしていきます。そしてその際社会の意思決定者もまた広告的手法でイメージによって大衆を説得してしまいます。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/11/070051

 

こうなると空気を読むということと同じことが起こってきます。つまり論理性ではなく感情や情緒、伝播によるものを上位において意思決定するわけです。つまり空気を読むという問題は大衆支配の問題でもあるわけですね。日本ではそれを空気を読むと紋切り型になっているのは、丸山眞男が戦後最初に優れた論評をしたためともいえます。この場合日本人は空気を読む民族だ、というのは半分間違いかもしれません。空気を読むかどうかは別として、大衆社会では似たようなことが起こってくると考えられるからです。

 

 

こうした問題は、世界の近代化と日本の古層から考えられる文化的特質の混ざり合ったものと考えられるかもしれません。大衆問題は近代化した国では必ず現れてきます。しかしその現れ方はその国々で違います。たとえば資本主義の成立もウェーバーはエートスという考え方で表しましたが、それはカルヴァン派の宗教倫理から生まれたと考えられました。それを日本では儒教の文脈で論語を通して掴みました。そのため日本資本主義の父である渋沢栄一の本は『論語と算盤』なのです。これと同じように大衆問題も日本的に現れてくると考えることは無理があるとも思えません。そして日本版大衆問題として、空気を読む、ということが概念化されるかと思います。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/19/193041

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/20/193050

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/24/193056

 

気になったら読んで欲しい本

ウェーバー『音楽社会学』 

ウェーバーの大著の付録として書かれたものですが、音楽という本来感覚的なものであっても、ヨーロッパは五線譜で論理化してしまうほどに過剰論理的な文化圏である、というようなことが書いてあったかと思います。

中島義道『ウィーン愛憎』 

哲学者によるドイツ留学記ですが、ドイツでの徹底した論理的対立が滑稽さも含めて書いてあります。こうした姿がヨーロッパ的だとすれば、最近の日本におけるクレームなどちゃんちゃらおかしくも感じてしまいます。下宿先でガスストーブからガス漏れてるので危険だから直して欲しい、と言っても、前の人はそんなこと言わなかった(アンタがおかしい)といって取り合ってくれない大家さんの話などあります。これをひとつずつ理屈でねじ伏せていくわけです。もしかしたら、ようやく日本はヨーロッパ的水準に達したのかもしれません(でも漱石はそんなイギリスに行って病気になっちゃったけど…)。

本居宣長『玉勝間』 

日本におけるナショナリズムを形成した本であり、日本の文化的特徴をもののあわれとした本でもあります。ただ私は読んでいません。

丸山眞男『忠誠と反逆』 

で、丸山眞男か本居宣長に対して日本の古層をえぐり出そうとした本。と思うのですが、これも読んでいませんので内容については言うことが出来ません。

ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』 

イギリスではサッカーファンは労働者階級、ていうのはこの本で目にした気がしますが、読んではなくてぺらぺらとめくって適当に拾い読みした時に目に入ったので、もしかしたら間違った文脈で紹介しているかもしれません。

ノーマン『日本における近代国家の成立』 

明治政府を担った者たちは下級武士出身者だった、ということはこの本で読んだ覚えがあります。なんでも当時の幕府や藩の高級官僚にあたる武士たちはすっかり腐敗してしまっていたので、実務を取り仕切っていた下級武士の者たちが結局西欧諸国との交渉や内政を行える唯一の層になったのだそうです。そしてそのまま維新後の政府も取り仕切るようになったわけですね  

オルテガ『大衆の反逆』 

オルテガの本。とても重要なことが書いてあります。ほとんど現代日本の姿のように見えるのですが、とても100年近くも前に書かれたとは思えません。これはつまり、この頃に私たちの社会が歴史的な激変を起こして今の形になった、ということかもしれませんね。ネット社会はこれと同じくらいの歴史的激変になるのかは気になるところですね。

神島二郎『近代日本の精神構造』 

神島二郎の本。内容は上に書いたようなものしか覚えていません。とにかく読みにくい本で、別に難しくて読みにくいわけではないのですが、文体が読みにくいのでしょうか。注も多いし解説の従軍体験の話も熱を帯びている、不思議な本です。

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 

ウェーバーが資本主義の成立の条件として宗教的な倫理を見出しました。エートスとして概念化されるのですが、これはヨーロッパにおいてなぜ近代資本主義が成立したのか、という問題によって探求されました。

渋沢栄一『論語と算盤』 

そしてこうしたエートスを非ヨーロッパ圏でいかにして掴み取るか、ということが資本主義後進国の大きな課題でした。そして日本では儒教を通してそれを可能にしたわけです。どこで読んだか忘れたのですが、非ヨーロッパ圏で資本主義化に成功したのは儒教圏だそうです。となるとやはり文化圏ごとに現れてくる社会現象の差というものはあると考えられそうです。

 

続きのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

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