前回のお話
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二流以下における思想的所属の価値
思想的立場の違いによる嫌悪感
思想的立場の違いと理解を一流同士の場合で考えてみました。するとやっぱり立場が違っても一流同士であればそれなりに相手のことを評価するのではないか、と思われましたね。ではなぜクモやゲジゲジのようにとことん嫌ったりするものなのでしょうか。
出世の階段としての思想的グループ
ちょっとそうした考えのヒントになりそうなことを佐藤優が言っていたことがあります。それは立花隆との対談集だったと思うのですが、保守や左翼というのは二流の論者にとって自分の地位をステップアップさせるための都合のいい梯子なんだ、という意見でした(確かそのような言い方だったと思う)。つまり保守とか左翼とか言ってるけど、それは出世のための階段だ、と言ってるのだと思います。
この考えにのっとれば、まず最初に保守なり左翼なりの大文字の思想があります。それは個人によって考え出されたものというより、そうして生まれたものを継承していくことによってひとつの思想的グループを形成していることになるかと思います。そのためそこに参加することは保守なり左翼なりの陣営に自らの身を置くことを意味するかもしれません。そしてそうすることにより個人で自らの意見を発言するよりもひとつのグループとしての発言とすることによって、自らの発言はその人自身によって発言されるよりも大きくなります。その結果その人自身はさほどの論者でないにもかかわらず、保守なり左翼なりの代表的意見を語っている(ように見せる)ことによってその人個人以上の発言権を持つようになるわけです。
逆に一流の人というものは保守や左翼を思想的母体にしていながらも、必ずそれだけで済まさずに様々な領域から学び吸収していると考えられます。そしてそうした混合物として1人の個人としての意見を形成できるようになって、ようやく自らの発言ができるのだと思えます。そのためその人はただ保守なり左翼なりというだけですまされない人物となっている可能性があり、おそらく保守でも左翼でも最初の人、パークやマルクスはそうした人物で、だからこそ後々まで影響を与え続けているのだと考えられますね。その上で自分の考えをある立場に則して意見を発するわけです。
小さな者を大きく見せるカラクリとしての所属
つまり本来なら発言権のないような人が、保守なり左翼なりの思想的グループに属することによって無視されないようになるわけですね。そしてもしかしたらそうしたグループに属することによって何者かになれたような気もするのかもしれません。たとえば最近はタレント(やそれに類するようなやり方で選挙に出る人)が政治家になって時々居丈高な態度をしているように見えることがたまにあります。それは政治家(=権力の側)になったから偉くなったと思っているからなのかもしれません。私はただのタレントじゃないのよ、国会のセンセイなのよ、といったところでしょうか。それと同じように、俺は勝手に言ったんじゃないんだぞ、保守(左翼)として言ってるんだからな、何も考えてないお前らとは違うんだぞ、ってなもんでしょうか。
しかし政治家になったって結局何もわかっておらず、自分たちの親分の言うことを聞くしか出来ない程度の政治家であれば、そんなの政治家の責務を果たしているわけではありませんね。誰でもいいわけです。民主主義は多数決の原理がありますから、数合わせに1人出せればいい、という判断で政治家にしてもらえている(つまり党の公認が得られて組織票が得られる)のであれば、その人個人である理由などないのです。あるのは親分のいうことを聞く、逆らわないというだけですね。数合わせとしてはむしろこうした人材の方が便利なのかもしれませんが、あまり思慮深い人物ではありませんから自分では偉い先生になってしまって、他の場所で言うこと聞かせてしまう(つまり権力を行使する)わけです。そして組織の末端で静かに腐敗が進んでいくわけですね(ここ数年騒がれるスポーツ界の組織的トップの横暴は、こうした問題が行き着くとこまでいったものなのかもしれません)。
これと同じくその人自身の意見なんてなんの価値もない人が、保守として、左翼として発言することによってあたかも自分がバークやマルクスに連なる者として偉くなってしまったかのように錯覚させるのかもしれません。そして政治家が権力を行使させる(自分の立場によって人に言うこと聞かせる)ように、意見を言う人はバークなりマルクスなりの意見を僭称して知らぬ者へと自分の意見を聞かせているのかもしれませんね。
なんでも学生運動をしていた頃にはマルクスを読んだこともない人がたくさんいたそうです(でも逆に当時は大学に入るとわけもわからず学生同士の活動でマルクス読まされたとも言います。どっちなんだ)。じゃあ保守の方でもバークやトクヴィル、もしくは保田與重郎や小林秀雄、福田恆存に江藤淳を読んでいるのかといえば、どれくらいいるのかはわかりません。ではなぜ保守や左翼を名乗りながら発言できるのでしょうか。きっとその方が相手を脅かすことができるからかもしれません。相手はそんなもの読んだこともないし、知らないからです。でも、実は言っている方も読んでないし、よく知らないのかもしれません。それでもなにか自分の背景にあるかのように見せかけることによって大きく見せることが出来るというわけなのかもしれませんね。虎の威を借る狐といったところでしょうか。
本来占められるべきでない人々によって占められた、責任ある場所
ですからかつて左翼がダメにした、という意見はそもそもマルクスも読んでないような二流の左翼がたくさんいたからダメにしたのであり、今保守やネトウヨが問題だ、というのはバークも福田恆存も読んでない人がたくさんいて場を占めているから問題だ、と考えるなら、実はどちらも一緒の可能性があります。すなわち、よく知らないのに自分の出世や発言権の拡張のために思想を僭称している、二流以下(偽物)の人間が一流(本物)しか座れないはずの席に座ってしまっている、そして実際に様々な責任ある決定がそうした人々によってなされてしまっている、ということなのかもしれません。
なんか今回もとても陰気なお話になってしまいました。冬だからでしょうか。
次回のお話
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気になったら読んで欲しい本
立花隆,佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』
佐藤優の発言はこの本の中だったと思います。私は立ち読みして読んだだけなので全体は把握していません。多分、学生運動の時もマルクス読んでない奴がたくさんいた、というのも立花隆がこの中で話していたかもしれません。
絓秀実『1968年』
大学入るとわけもわからずマルクス読まされた、とは絓秀実の発言だったと思うのですが、どこで話されていたのか覚えていません。もしかしたらあちこちで言ってるかもしれませんので、一番手に取りやすい新書を載せておきたいと思います。学生運動の頃を扱ってるから書いてあるかもしれませんね。ただ私はまだ読んでいません。
追記(当時)
ブックマークで発言権じゃなくて発信力や影響力じゃないか、とご指摘いただきました。おそらく現在のネット状況ではその通りだと思います。ただそれ以前の出版を中心とした言論の場では、そもそもそうしたことを可能とする雑誌に載ること自体が大きな関門だったのであり、それを得ること自体が難しかったため発言権と書いてしまった次第です。
今はもう死語かと思いますが、昔は岩波文化人なんて言葉がありました。これは岩波書店を中心として言論活動をされる知識人を指した言葉らしいのですが、それは同時に影響力ある知的出版媒体として岩波書店が図抜けて影響力が大きかったからでもあるそうです(絓秀実がそんなこと書いてた気がする)。そしてそうした出版社の後ろ盾なしに言論活動をしようとすれば想像を絶するほどの困難が当時にはあったようです。今世紀に入ってからネット環境の完備のため誰もがメディア発信が可能になり、こうした社会状況はなくなりました。しかし代わりに出版媒体に載ることが可能な選別もなくなってしまい、ネットにおいては誰もが参入可能で自由なあまり質的担保が失われ、言論も同じ憂き目にあっているのだと思います。よく知りませんが、多分ネット上で保守だ左翼だ、といって反発しているのはかつての基準でなら雑誌に登壇することすら不可能な二流の人々ばかりの人の発言を目にして反応しているのではないか、そしてそれは思想(もしくは左右)の違いではなく単なる質の低いものに対する反発であり、実のところ誰も保守なり左翼なりの思想そのものを知らないで反発しあってるのではないか、というようなお話になるでしょうか。もちろん反対にネット上で発言している人の方がまともな知識人で、そうした知識人を標的とすることで自分の名前を売る人もいるんだろうと思いますけどね。
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お話その146(No.0146)